稲川会2次団体「杉浦一家」の要職者であった貞方留義は、2008年「埋地一家」(横浜市)三代目を継承しました(*1)。2008年以前の埋地一家は、40年以上トップ不在の状態が続いていました(*1)。
かつて横浜港の荷役業界の顔役として藤木幸太郎がいました(*2)。その藤木幸太郎は埋地一家の初代総長を務めていました(*2)。つまり藤木幸太郎が埋地一家を立ち上げたのでした。
1926年(大正十五年)港湾荷役業者の全国的な親睦団体として「鶴酒藤兄弟会」が設立されました(*3)。親睦団体の組織名は、有力な港湾荷役事業者であった鶴井寿太郎、酒井信太郎、藤原光次郎の頭文字からとられました(*3)。
山口組も当時神戸港で港湾荷役業に携わっていたことから、二代目組長の山口登が鶴酒藤兄弟会に参加しました(*4)。山口登は、鶴酒藤兄弟会の神戸支部を担当しました(*4)。
先述の酒井信太郎は、元々は「鶴井組」(港湾荷役業の組織)の下、神戸港で働いていました(*3)。鶴井組のトップは、先述の鶴井寿太郎でした(*3)。
鶴井組は、ニッケル.エンド.ライオンス商会の下請けでした(*3)。元請けのニッケル.エンド.ライオンス商会が横浜に営業所を出すにあたって、鶴井組も酒井信太郎を「作業部長格」として横浜に赴任させました(*3)。
その後、酒井信太郎は横浜で「酒井組」を設立しました(*3)。藤木幸太郎は、この酒井組にいました(*3)。
藤木幸太郎は1923年(大正十二年)「藤木組」(港湾荷役業の組織)を設立しました(*5)。1947年藤木組は現在の「藤木企業株式会社」に改称しました(*5)。
「埋地一家」(ヤクザ組織)と「藤木組」(正業の組織)とのつながり等に関しては、現在手元にある情報では明らかにすることができません。おそらく藤木幸太郎は、2つの組織のトップを兼任していたのではないでしょうか。
1970年藤木幸夫(藤木幸太郎の実子)が藤木企業の社長に就任しました(*2)。一方、先述したように、埋地一家では40年以上トップ不在の状態が2008年まで続いていました。
逆算すると1960年代後半から埋地一家は、事実上「休眠状態」(活動実績のない組織)だったのです。貞方留義が杉浦一家から独立する際、自身の組織名を「埋地一家」に改称したことで、埋地一家の「復活」に至ったのでした。
<引用・参考文献>
*1 『実話時代』2014年8月号, p34
*2 『選択』2014年10月号「《土着権力の研究》【第42回】神奈川県 藤木幸夫」
*3 『山口組永続進化論』(猪野健治、2008年、だいわ文庫), p208-209
*4 『山口組永続進化論』, p62-63
*5 藤木企業株式会社のサイト(http://www.fujikigroup.com/japan/fkigyo/index.htm)
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