日本最大のテキヤ組織「極東会」において2015年9月、会長職の入れ替わりがありました(*1)。松山眞一会長が退き、高橋仁理事長が新会長に就任しました(*1)。極東会において理事長はナンバー2の役職(*2)である為、順当なトップ交代人事といえました。一方、松山眞一は引き続き「極東五代目」の地位にいました(*1)。
「極東五代目」は元々「極東桜井一家関口五代目」という名称でした。
極東会の前身は「極東関口会」でした。極東関口会は1979年、「関口一門」(関口愛治系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)により結成されました(*3)。後に関口一門以外のテキヤ組織(「研谷一家」、「飴源筧一家」等)も極東関口会に加わりました(*3)。
1990年11月極東関口会は「極東会」に改称、松山眞一が極東会の初代会長に就任しました(*4)。
当時(1990年11月)、田中春雄が「極東桜井一家関口四代目」の地位にいました(*5)。田中春雄は1980年3月5日、極東桜井一家関口四代目を継承していました(*5)。
1993年4月田中春雄は喉頭がんにより死去しました(*5)。同年(1993年)10月、極東会会長の松山眞一が「極東桜井一家関口五代目」を継承しました(*4)。
1998年6月「極東桜井一家関口五代目」は、「極東五代目」に改称されました(*6)。
テキヤ業界では所属組織(本家)から独立する際、「一家名乗り」「分家名乗り」という2つの方法がありました(*7)。一般的に、実績のある子分が「一家名乗り」を許され、実績のある舎弟が「分家名乗り」を許され、所属組織から独立を果たしました(*7)。
しかし一家名乗りに関しては、名目上するものの、独立をしない場合が多かったです(*7)。その場合、一家名乗りした本人だけで露店商売をしていきました(*7)。いわゆる「一人親方」として活動していったのです。
一家名乗りもしくは分家名乗りにより独立はするものの、各テキヤ組織等は基本的に、自身の源流となる「本家」及び「同じ系統の組織等」とはつながりを持ち続けていきました(*8)。テキヤ組織に関する書籍において、「本家」及び「同じ系統の組織等」の総称として「一門」という言葉が使われていました(*8)。各一門は、一門の統括団体として、連合会(1次団体)を結成しました(*8)。
先述したように、結成時の極東関口会(1979年)が、「関口一門の統括団体」だったといえます。
一方、極東桜井一家関口とは、関口一門の「本家」に該当したと考えられます。また極東桜井一家関口は、いわゆる「稼業名」であり、組織ではなかったと考えられます(*9)。つまり関口一門における本家の稼業名が「極東桜井一家関口」であったと考えられます。
関口愛治が「極東桜井一家関口初代」でした(*10)。関口愛治は元々、テキヤ組織「桜井一家」に入っていました(*10)。桜井一家のトップは、桜井庄之助でした(*10)。
また山口城司が「極東桜井一家関口二代目」、小林荘八が「極東桜井一家関口三代目」となっていました(*11)。
小林荘八は1967年に極東桜井一家関口三代目を継承しました(*11)。小林荘八は1980年3月に引退(*11)、先述したように田中春雄が極東桜井一家関口四代目を継承しました。
<引用・参考文献>
*1『週刊実話』2015年11月19日号,p41-43
*2 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版),p20
*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p16
*4 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p75-76
*5 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p74
*6 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』,p21
*7 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p28,99-100
*8 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p28
*9 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p23
*10 『実話時代』2016年1月号,p30
*11 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』,p73
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