極東会の関東博徒系ヤクザ組織との親戚縁組、抗争

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 テキヤ組織の極東会は、関東の博徒系のヤクザ組織と親戚縁組をしています。1995年住吉会と親戚縁組(*1)、1996年松葉会と親戚縁組(*2)、また縁組した年は確認できませんが稲川会とも親戚縁組をしています(*3)。しかし極東会は親戚縁組した後に、住吉会と松葉会のそれぞれと抗争に陥っており、友好関係を保つことの難しさが示されています。

 極東会は住吉会と親戚縁組をする前に、抗争を起こしたことがあります。1983年極東関口会(現在の極東会)は住吉連合会(現在の住吉会)との間で、池袋において抗争を起こします(*4)。抗争の主体となった組織は、極東関口会側は2次団体・三浦連合会の下部団体の高橋総業、住吉連合会側は2次団体・幸平一家の下部団体の池田会です(*4)。三浦連合会の後継団体は、現在の松山連合会です。1983年当時の池袋の裏社会は、主に極東関口会と幸平一家によって治められていました(*4)。抗争の要因としては、縄張り争いがあったと考えられます(*4)。1983年10月6日夜、池袋の高橋総業事務所近くにいた二人組の男に警察官4人が職務質問したところ、二人組は逃亡します(*4)。逃亡の際二人組は拳銃で発砲し、付近を歩いていた10代の専門学校生と追跡した警察官に怪我を負わせました(*4)。二人組の1人は現行犯逮捕、もう1人は翌7日池袋署に出頭しました(*4)。2人とも池田会の組員でした(*4)。事務所の近くに拳銃を持った他団体の人間がいたことから、高橋総業は看過できず池田会に反撃します。10月7日早朝、高橋総業の組員が池田会下部団体・木村睦事務所と木村睦幹部宅を銃撃します(*4)。10月7日中に、上部団体の話し合いにより和解となり、抗争は終了しました(*4)。

 抗争は2日間で終わりましたが、実は1978年から両団体の間では、暴力事件が起きていました。1978年池田会側による極東関口会(当時は極東関口一家)組員殺害事件、1979年池田会側による極東関口会系列事務所銃撃事件、1982年双方の事務所が銃撃される事件が起きていました(*4)。幸平一家の中でも池田会という組織が当時の池袋で先鋭的な動きを示しており、受けて立っていたのが極東関口会という対立構図が1983年以前にすでにあったのです。ちなみに幸平一家現総長の加藤英幸は池田会出身です(*5)。加藤英幸自身は歌舞伎町で加藤連合(現在の加藤連合会)という組織を率い、歌舞伎町の中で加藤連合の勢力を拡大させていきます(*5)。加藤連合は歌舞伎町随一の武闘派組織として知られていました。一方、極東関口会の高橋総業の設立者は、現極東会会長の高橋仁です(*3)。高橋総業は高橋仁が26歳の時に設立されました(*3)。

 1995年極東会は住吉会と親戚縁組をします。しかし1998年再び、極東会と住吉会幸平一家の間で池袋を巡り抗争が勃発します(*1)。1998年3月4~6日の3日間の抗争でした(*1)。3月4日夜、東池袋の極東会系幹部が住むマンション部屋に火炎瓶が投げ込まれます(*1)。翌3月5日夜、西池袋の路上にて極東会組員2名が乗用車に乗車中、すれ違った車から銃撃され負傷します(*1)。6日には、4日に火炎瓶を投げ込まれた東池袋のマンション部屋ドアが銃撃される事態が起きました(*1)。自宅への火炎瓶投げ込み、乗車中の車に向けた銃撃から、幸平一家側の過激な攻撃姿勢が浮かび上がります。一方、極東会も反撃を開始します。6日、池袋の住吉会系組長宅と住吉会関係者が以前住んでいたマンション部屋、板橋区の住吉会関係者宅が銃撃されます(*1)。しかし両団体の話し合いにより和解が成立、3月6日にて抗争は終了します(*1)。

 1996年極東会は松葉会と親戚縁組をします。しかし2001年極東会は松葉会と抗争を起こします(*2)。2001年3月11~22日の11日間の抗争でした(*2)。3月11日夜、栃木県真岡市内にある松葉会の2次団体・白土一家事務所近くの路上で、口論の末、白土一家幹部と組員が銃撃される事件が起きました(*2)。幹部は顔などを撃たれており死亡、組員は腹などを撃たれて重傷を負いました(*2)。その後の警察当局の調べにより、口論の末発砲したのは極東会の2次団体・昌栄会幹部の犯行であったことが明らかになります(*2)。松葉会側の反撃は、しばらく経った3月19日にありました(*2)。3月19日昼、東京都新宿区のホテルの玄関前にいた極東会の組員が二人組の男から銃撃され、死亡します(*2)。当時ホテル内では極東会系幹部が警察当局の捜査員から情報収集されており、死亡した組員は幹部の警護役としてホテルの玄関で待機していたところでした(*2)。

 以後松葉会は極東会から、同日の19日夕方真岡市内の松葉会系幹部宅が銃撃、20日夜真岡市内の松葉会系事務所が銃撃、21日未明新宿区の松葉会系事務所が入っているビルが銃撃、21日未明栃木県氏家町の松葉会関係者宅が4トントラックにバックで突っ込まれる、21日夜新宿区の松葉会系事務所が入っているマンションが銃撃、21日夜東京都豊島区の松葉会系組員が住むマンション部屋玄関が銃撃されるという被害を受けます(*2)。19~21日の3日間で、松葉会は6件の攻撃を受けました。受けた攻撃の内訳は「建物への銃撃」5件、「建物への乗用車特攻」1件でした。

 一方、19日以降極東会も松葉会から、20日早朝真岡市の男性宅銃撃(11日事件の犯人である昌栄会幹部妻の実家)、21日未明長野県上田市の極東会系幹部宅壁で弾痕が見つかる、21日早朝真岡市の極東会系組員宅が銃撃される、21日昼東京都調布市の極東会関係者の自宅車庫が銃撃、21日昼東京都小平市の極東会系組員が住むマンション部屋玄関が銃撃されているのが発見される、21日夜新宿区の極東会系組員の自宅がある雑居ビルが銃撃、21日夜千葉県船橋市の極東会系事務所が銃撃されているのが発見されるという被害を受けます(*2)。20~21日の2日間で、極東会は7件の攻撃を受けました。受けた攻撃の内訳は、7件全て「建物への銃撃」でした。

 また21日夜東京都渋谷区のマンションで弾痕が発見、22日早朝新宿区のビルで銃撃の跡が発見されています(*2)。この2件は攻撃対象が不明です。22日以降、両団体による抗争事件は止みました(*2)。極東会と松葉会の間で和解に至った模様です(*2)。19日極東会側から死者が出たことにより、両団体の死者数が同数になったことが、和解に至りやすくなった要因の1つであったと考えられます。また19日以降の両者の攻撃においては、極東会と松葉会とも、短期間で敵方の拠点を広範囲に調べ上げたことが伺えます。

<引用・参考文献>

*1 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p100~103

*2 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p104~108

*3 『実話時代』2016年1月号, p30~32

*4 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p80~83

*5 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』(別冊宝島編集部編、2016年、宝島社), p60~61

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