関東ヤクザ業界において1次団体は長らく「連合型の組織形態」をとってきました(*1)。つまり1次団体とは「2次団体の集合体」だったのです。1990年以降、多くのヤクザ組織が「1次団体と2次団体の関係」を垂直的にする組織改編を行いました(*1)。
垂直的関係とは、1次団体を「上部団体」、2次団体を「下部団体」とするものです。明確な上下関係ができることで、1次団体(1次団体執行部)の2次団体に対する拘束力は強まりました。ヤクザ業界において垂直型の組織形態は「直参(じきさん)制度」と呼ばれていました(*1)。
直参とは「親分から直接盃を受けた舎弟及び子分」を指しました(*1)。兄舎弟盃や親子盃を交わすことで、直参制度は成立していました(*2)。関西の「山口組」は昔から直参制度を導入していました(*1)。
まず「稲川会」が1990年、直参制度を導入しました(*1)。翌1991年「住吉会」が直参制度をとりいれました(*1)。1994年テキヤ組織「極東会」が直参制度を導入しました(*1)。また同年(1994年)松葉会も直参制度を導入しました(*1)。稲川会の直参制度導入(1990年)に触発されて、他団体も相次いで、組織形態を改編したことが窺えます。その後2007年「双愛会」も直参制度を導入しました(*3)。
住吉会は1998~2014年の間、直参制度を解消し、連合型の組織形態に戻しました(*4)。しかし2014年、関功が住吉会の会長就任時、直参制度を再導入しました(*4)。しかし住吉会は連合型の組織形態に戻していた時期もあることから、直参制度をとるものの、連合型の要素が残る組織といえます。1次団体執行部の2次団体に対する拘束力はそれほど強くなかったと考えられます。
一方、稲川会の場合、長年、直参制度を維持し続けていることから、1次団体執行部の2次団体に対する拘束力は強かったと考えられます。
1次団体「國粹会」においても工藤和義会長が直参制の導入を図りました(*5)。しかし2001年、加盟3団体(2次団体)が直参制度の導入に反対、工藤和義会長は3団体トップらを絶縁処分としました(*5)。結果、國粹会内部で抗争が勃発しました(*5)。
山口組の仲介もあり、2003年國粹会内部抗争は終結しました(*6)。3団体のトップらは引退しました(*6)。
2005年9月、國粹会は山口組の傘下に入りました(*7)。ちなみに國粹会内では2007年直参制度が導入されました(*8)。つまり2003年の内部抗争終結時においても、國粹会は直参制度を導入していなかったのです。
双愛会と國粹会は、他の関東ヤクザ組織に比べて、直参制度導入に遅れました(ともに2007年導入)。逆にいえば、連合型の組織形態でも、上手くやっていけていたという側面もあったのかもしれません。連合型組織形態の良さをさらに実証したのが住吉会でした。組織規模の大きい住吉会は、連合型の要素が強い組織ですが、過去に目立った内部抗争や分裂を引き起こしていません。
逆に、直参型組織の山口組や稲川会は過去に何度も内部抗争や分裂を引き起こしました。直参制度は、「執行部の独裁化」「有力2次団体による1次団体の私物化」という弊害も招いてきたのです。1次団体執行部要職者の出身2次団体ばかりが優遇され、他団体は冷遇された結果、2次団体同士の関係悪化が山口組や稲川会で見られました。
3次団体の数十人規模の組織であれば上下関係を明確にする直参型組織は有効かもしれません。しかしながら1次団体における直参型組織は、組織(1次団体)対組織(各2次団体)の関係になるため、円滑な運営をしていく上には多くの調整作業が必要となります。調整作業を怠れば、内部抗争に至る可能性を秘めています。
一方、連合型組織の意思決定は「合議制」を基本とする為(もしくは執行部に一任する形でも執行部の権限が弱い為)、「執行部の独裁化」「有力2次団体による1次団体の私物化」という事態にはなりにくいです。連合型組織の弱点としては、抜本的な組織改革の困難が挙げられます。
<引用・参考文献>
*1 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p329-334
*2 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p91,104
*3 『実話時代』2015年7月号, p38
*4 『実話時代』2017年3月号, p19
*5 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p164-165
*6 『現代ヤクザ大事典』,p41-42
*7 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫),p46
*8 『実話時代』2015年10月号, p21
コメント