上萬一家と住吉一家との関係

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 松葉会2次団体「上萬一家」(本部・東京都江戸川区)は、博徒組織を源流としました(*1)。その博徒組織は幕末に興されました(*1)。

 現在上萬一家のトップは、河基真治(九代目総長)です(*1)。上萬一家は幕末から江戸川区、葛飾区、千葉県西部を縄張りとしていました(*1)。しかし四代目総長の高田宇吉が1950年死去すると、上萬一家は跡目不在という事態に陥りました(*1)。上萬一家の活動自体が停滞したことは想像に難くありません。

 11年後の1961年、松葉会初代会長の藤田卯一郎が、上萬一家の五代目総長に就任しました(*1)。

 1994年松葉会は、直参制度(1次団体が2次団体を「傘下団体」とする制度)を導入するまで、長らく連合型の組織形態をとっていました (*2)。1953年松葉会は、旧関根組の勢力を集める形で、結成されました(*1)。

 藤田卯一郎にとって1次団体・松葉会会長の地位は、あくまでも連合型組織の長だったのです。藤田卯一郎が「自前の組織」を欲した結果、上萬一家が用意されたと考えられます。藤田卯一郎五代目総長時代、上萬一家は「松葉会の協力団体」という位置付けにされていました(*3)。上萬一家は、2次団体の中でも上位に位置していたことが窺えます。

 1964年まで違法賭博に対する検挙は、現行犯逮捕が主流でした(*4)。違法賭博業では、検挙リスクは低かったです(*4)。1964年以前までは、博徒系組織の違法賭博業は好調だったと考えられます。

 1961年藤田卯一郎が上萬一家五代目総長に就任し、その翌年(1962年)上萬一家貸元の磧上義光が1次団体「港会」の中核組織「住吉一家」トップに就任しました(*5)。貸元とは、博徒組織では最高位の「総長」に次ぐ立場の者で、縄張りの監督者でした(*6)。磧上義光は、上萬一家の縄張りの一部を監督していたのです。

 以上から、磧上義光が「松葉会2次団体・上萬一家」から「港会2次団体・住吉一家」に移籍したことが窺われます。

 元々、上萬一家と住吉一家は、関係を有していました。上萬一家四代目総長の高田宇吉は、住吉一家二代目総長の倉持直吉と「兄弟分」の関係を結んでいました(*1)。トップ同士による兄弟分の関係は、上萬一家と住吉一家の間で、友好的な関係があったことが示唆されます。

 1964年住吉一家四代目総長の磧上義光は、1次団体・港会を「住吉会」に改称、住吉会トップ(会長)にも就任しました(*7)。磧上義光は1967年に死去するまで、住吉一家総長の座にいました(*8)。住吉会が1965年5月に解散した為、1965年5月以降、磧上義光から「住吉会会長」の肩書は消えました(*8)。磧上義光が関東ヤクザ組織業界の中で、高い評価を受けていたことが分かります。

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2016年6月号, p29-31

*2 『実話時代』2017年3月号, p28

*3 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p191

*4 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編、2002年、双葉文庫), p108-109

*5 『実話時代』2016年8月号, p39

*6 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p17

*7 『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002年、ちくま文庫),p191

*8 『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002年、ちくま文庫),p195

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