札幌の稲川会

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 稲川会2次団体「越路家一家」は、北海道札幌市に拠点を置き、また博徒組織を源流としていました(*1)。

 北海道では、明治以降、テキヤ組織が数多く活動していました(*1) (*2)。太平洋戦争終了(1945年)後、「丁字家」「寄居」「源清田」の各一門の勢力は、北海道ヤクザ社会の中では存在感を発揮していました(*2)。

 当時北海道では、博徒組織よりもテキヤ組織の数の方が多かったといわれています(*2)。

 昭和四十年代(1965~1974年)北海道全域では警察組織が高市(たかまち)において露店の配置決めをしていました(*3)。高市とは社寺の祭礼や縁日における仮設露店市のことでした(*4)。日本では通常、その高市を仕切る地元テキヤ組織の親分が、露店の配置決めの権限を持っていました(*4)。

 越路家一家二代目の本郷清は、北海道のヤクザ組織の親睦団体「北海道同行会」の立ち上げに、大きな役割を果たしました(*1)。1980年5月20日、山口組2次団体「加茂田組」が、札幌市内の事務所開きの為に、約200人の構成員を引き連れ、北海道に入りしました(*5)。北海道同行会側は大量の人数を動員し、加茂田組の動きを妨害しました(*5)。道警の説得もあり、翌5月21日、加茂田組側は事務所開きをせずに飛行機で北海道から立ち去りました(*5)。

 1985年越路家一家は、稲川会に加入しました(*6)。

 稲川会2次団体「木暮一家」も、札幌市に拠点を置き、テキヤ組織を源流としていました(*1)。1892年(明治二十五年)頃、木暮留吉が札幌で木暮一家を立ち上げました(*1)。元々木暮留吉は東京のテキヤ組織「橋場一家」の構成員で、後に「虎の見世物」を持って札幌に移住したのです(*1)。

 木暮留吉(木暮一家の祖)は、1908年(明治四十一年)に死去しました(*7)。木暮一家では、木暮初太郎(木暮留吉の長男)が「初代」に位置付けられていました(*7)。木暮一家初代(木暮初太郎)体制時、水野呑海が木暮一家の発展に大きく寄与しました(*7)。その後、木暮英雄が木暮一家二代目、水野伊佐夫が三代目、木暮征生が四代目、水野四郎が五代目、中野義之が六代目を継承しました(*8)。

 木暮一家も、越路家一家と同じく、1985年に稲川会に加入しました(*8)。

 この1985年、北海道のヤクザ組織「誠友会」は山口組の傘下に入りました (*9)。

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2016年10月号, p109-111

*2 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編、2002年、双葉文庫), p88-89

*3 『香具師はつらいよ』(北園忠治、1990年、葦書房),p258

*4 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書),p44-48

*5 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p36-39

*6 『BAMBOO MOOK 四代目稲川会 総覧 : 新生「稲川軍団」を率いる最高幹部・直参60人』(ジェイズ・恵文社編、2006年、竹書房), p55

*7 『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』(藤田五郎、1973年、徳間書店),p182

*8 『実話時代』2016年6月号, p39

*9 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p218

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