東京の一等地である銀座、六本木、渋谷は山口組2次団体・國粹会(2005年まで独立団体)の縄張りです(*1)。しかしその縄張り内では、住吉会系などの組織が主に、違法領域の資金獲得活動をしています(*1)。銀座、六本木、渋谷では國粹会が、住吉会系などの組織に縄張りを貸し出す「貸しジマ」の制度が長らくとられてきました(*1) (*2)。國粹会が「大家」、住吉会系などの組織が「借家人(店子)」の立場です。國粹会が縄張りの「所有権」を、住吉会系などの組織が縄張りの「営業権」を有していることになります。縄張りを借りている組織は國粹会に地代を払います(*2)。
銀座の場合、國粹会の2次団体・生井一家の縄張りです(*3)。バーやクラブの密集地である銀座7~8丁目は住吉会の2次団体・小林会の活動範囲とされています(*4)。2005年國粹会は山口組傘下に収まり、2011年10月に落合金町連合が國粹会から内部昇格する形で山口組2次団体となっています(*5)。結果、國粹会は山口組2次団体レベルにおいては、現國粹会と落合金町連合の2組織に分かれています。生井一家は現國粹会の2次団体として活動しています。銀座においては、現國粹会の2次団体・生井一家が「大家」、小林会が「借家人(店子)」という関係が現在も続いていると考えられます。
六本木、渋谷に関しては國粹会の2次団体・落合一家が元々縄張りとしてきました(*3)。落合一家は、現在落合金町連合の2次団体です(*5)。落合一家も六本木、渋谷の縄張りを住吉会などの下部団体に貸し出してきました(*6)。縄張りを借りる住吉会の場合、六本木では小林会が活動しており、渋谷では向後睦会と石井会が活動しています(*6)。六本木においては、落合金町連合の2次団体・落合一家が「大家」、小林会が「借家人(店子)」という関係が現在も続いていると考えられます。渋谷においては、落合金町連合の2次団体・落合一家が「大家」、向後睦会と石井会が「借家人(店子)」という関係が現在も続いていると考えられます。
國粹会が独立団体だった2001年、1次団体の組織形態を従来の連合型から垂直型に変更する案が工藤和義会長から提案されました(*3)。しかし生井一家、佃繁会、落合一家の3団体が反発し、3団体は國粹会から脱退し、内部抗争に至りました(*3)。生井一家は銀座の縄張りの所有権、落合一家は六本木と渋谷の縄張りの所有権を持つだけに、國粹会にとって脱退した勢力の存在は大きかったです。しかし2003年、3団体トップの引退と引きかえに、3団体が國粹会に復帰する案が成立したことで、抗争は終結します(*3)。
「貸しジマ」の制度は一見、「大家」の組織が優位性を持っているように見えます。しかしヤクザ組織に詳しいジャーナリスト鈴木智彦は「だが場所によっては、地代をもらっている側が無理矢理、押さえ込まれているようなところもある。こうした場所で、縄張りを返却してほしいという本音が噴出せず、表面的に友好関係が維持されたのは、ひとえに店子の暴力性が強かったからに他ならない。」と述べています(*7)。「店子」の組織が強い場合もあるのです。
新宿歌舞伎町は、元々独立団体・二率会の縄張りでした(*8)。二率会は老舗博徒組織の集合体で、2001年に解散しました(*9)。二率会の主要2次団体だった小金井一家では、東京勢力は住吉会に、神奈川勢力は稲川会に移籍しました(*10)。二率会も、歌舞伎町で活動する住吉会下部団体などに縄張りを貸し出していました(*9)。現在、歌舞伎町に多くのヤクザ組織が乱立している背景には、「借家人(店子)」の立場である住吉会が、外部のヤクザ組織の進出に対して、「大家」でない以上追い払う根拠を持ち得なかったことがあります(*9)。しかし2001年以降、住吉会は二率会の東京勢力を吸収したことにより、歌舞伎町では「借家人(店子)」の立場ではなくなりました。2001年以降、歌舞伎町での住吉会での地位が高まったことが考えられます。
また中京圏でも「貸しジマ」の制度は存在していました。現在山口組の2次団体・瀬戸一家(愛知県瀬戸市)は、山口組傘下に収まる1991年まで、独立団体でした(*11)。老舗博徒組織の部類に属する瀬戸一家は愛知県や岐阜県に広大な縄張りを有していました(*11)。
瀬戸一家は岐阜県中津川市に縄張り(費場所)を持っていました(*12)。岐阜県中津川市においては、博徒組織・信州玉木一家も縄張りを持っていました(*12)。信州玉木一家は信州大桑村を中心に縄張りを持っていました(*12)。中津川市では2つの博徒組織が縄張りを持っていたのです。
中津川市は「出会費場所」でした(*12)。藤田五郎によれば、出会費場所とは「一町、一村、一字に於て、一家と他家との費場の競合する状態」を指しました(*12)。同一地域において複数の博徒組織が縄張りを持つ状態が、出会費場所だったのです。
出会費場所の形態としては「日分け」「処分」「寺分」などがありました(*12)。「処分」形態の出会費場所では、同一地域内で2つの組織の縄張りは地理的に分かれているものの、隣接していました(*12)。中津川市の出会費場所の形態は「処分」でした(*12)。
大正時代(1912~1926年)と昭和時代(1926~1989年)初期、瀬戸一家は中津川市の自身の縄張りを信州玉木一家に貸しました(*12)。中津川市において信州玉木一家が自身の縄張りと瀬戸一家側の縄張りを一括で管理していたのです。
その後、信州玉木一家は戦前(1941年以前)からテキヤ組織「中京熊屋一家」の田中亀吉に中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を貸しました(*12)。田中亀吉が中津川市の縄張りを借りることに関しては、瀬戸一家側も承認しました(*12)。
「中津川市における瀬戸一家の縄張り」は、まず信州玉木一家に貸された後、田中亀吉に転貸されたのです。
田中亀吉は太平洋戦争終了(1945年)以降、中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を林純平に貸しました(*12)。林純平は元々、中津川市を拠点に活動する愚連隊の首領でした(*12)。当時、田中亀吉は恵那郡大井町(現在の恵那市)に住んでいました(*12)。
1955~1956年頃に林純平は、博徒組織・信州斎藤一家の二代目総長・滝田健の子分になり、「林組」(信州斎藤一家の2次団体)を立ち上げました(*12)。
この時点で「中津川市における瀬戸一家の縄張り」は、信州玉木一家に貸された後、田中亀吉に転貸され、さらにそこから林純平にも転貸されたのです。
1960年より少し前に、田中亀吉は中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を瀬戸一家に「返還」することにしました(*12)。当時の信州玉木一家の活動実態が不明ですが、返還の名の下、瀬戸一家が「中津川市における信州玉木一家の縄張り」を回収しようとしていたことが窺い知れます。
その後、瀬戸一家は、転貸先の林純平に対し、中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を瀬戸一家に渡すように伝えました(*12)。しかし林純平は縄張りを渡すことを拒否しました(*12)。1960年田中亀吉は病死しました(*12)。
一方、西日本においては、縄張りの「所有権」は流動的なものと見なされる傾向があります(*13)。時代が代われば、縄張りの「所有権」は力のある組織に奪われるという考えです(*13)。
<引用・参考文献>
*1『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫), p46-47
*2『実話時代』2014年8月号, p40
*3『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p41-44
*4『六代目山口組ドキュメント2005~2007』, p218
*5『実話時代』2015年3月号, p45
*6 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』, p107-108
*7『ヤクザ500人とメシを食いました!』(鈴木智彦、2013年、宝島SUGOI文庫), p226
*8 『ヤクザ500人とメシを食いました!』, p228-229
*9『週刊実話』2015年12月3日号, p43
*10『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p9-10
*11『日本のヤクザ100の喧嘩 闇の漢たちの戦争』(別冊宝島編集部編、2017年、宝島社), p178-179
*12 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社),p19-20,29-30,36-37
*13『現代ヤクザ大事典』, p64
コメント