山口組と船内荷役業

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 太平洋戦争終了(1945年)以降、山口組は1960年代まで神戸港の荷役業に深く関与していました。明治時代(1868~1912年)開始から、神戸港は国際貿易港として位置づけられ、発展していきました(*1)。港が栄えれば、荷役量は増加していきます。当時港湾荷役は主に人力で賄われていました(*2)。しかし一部の機械も港湾荷役現場では用いられていました。コンテナ船登場前から、一般貨物船にはクレーンがあり、荷役場面で用いられていました(*2)。

 港湾荷役を遂行する上で、重要な役割を果たしたのが、労働者の「調達」と「管理」といった労務面でした。積荷及び揚荷の業務内容よりも、労務の良し悪しが港湾荷役業の鍵を握りました。当時、労働者の調達及び管理において、必要となるのが統率力でした。

 昔からヤクザ組織は「暴力装置」(暴力行使を躊躇しない構成員ら)を持ち、他者を威圧することには長けていました。ヤクザ組織は暴力装置を力の源泉とし、統率力を持つことができました。ゆえにヤクザ組織は、自身の能力が活かせそうな港湾荷役の世界に明治時代以降進出していきました。山口組は、戦前の初代組長・山口春吉の時代から、神戸港の港湾荷役に取り組んでいました(*3)。

 戦後アメリカ合衆国軍が神戸港における港湾施設の多くを接収しました(*4)。終戦直後の神戸港では、ほとんどの港湾機能が止まってしまいました (*4)。しかし戦後復興に伴い、神戸港の復活は予想されていました(*4)。三代目組長・田岡一雄の率いる山口組も神戸港の港湾荷役業を再び手掛けようとしていました(*5)。神戸港の港湾荷役の仕事を狙うヤクザ組織は、山口組以外にも、当時の神戸には複数活動していました。五島組は沿岸荷役業、本多会は倉庫業と沿岸荷役業、中山組系の向井繁人はハシケ(港運船)業を得意分野としていました(*5)。

 ハシケとは、自走できない特殊な港運船のことです(*6)。昔の港は水深を十分確保できず、大きな貨物船は港に接岸できませんでした(*6)。よって荷役業者はハシケを用いて、港内の貨物船から沿岸まで荷物を運んでいたのです(*6)。

 一方当時の山口組は、どの組織も深く入り込んでいなかった「船内荷役業」に参入しました(*5)。つまり山口組はライバル組織と競合する分野を避け、隙間の船内荷役業を選んだのでした。

 ちなみに現代の船内荷役業では作業班の単位として「ギャング(Gang)」という言葉が用いられています(*7)。1ギャング(班)は7~24人で構成されています(*7)。

 1950年6月朝鮮戦争が勃発し、神戸港において荷役作業量が増加しました(*8)。1952年3月以降アメリカ合衆国軍から神戸港の返還が始まりました(*8)。環境が整備される中、山口組は神戸港の港湾荷役業で重要な位置を占めるべく、対外活動を活発化していきました。1956年3月、港湾荷役会社の全国規模団体「全国港湾荷役振興協会(全港振)」が結成されました(*5)。結成に大きな役割を果たした田岡一雄は副会長兼神戸支部長の役職に就きました(*5)。

 全港振は合法領域で活動する企業の団体でした。なぜ山口組トップの田岡一雄が「副会長職」に就けたのでしょうか。1953年1月田岡一雄は船内荷役業の甲陽運輸株式会社を設立、社長に就きました(*5)。つまり田岡一雄は「表世界の顔」として「甲陽運輸株式会社社長」の地位を手に入れたのです。暴力団対策法(1992年施行)のない時代、ヤクザ組織の長が企業社長になることは許されていました。

 1964年9月ノルウェーの貨物船「スルナ号」が神戸港の第一防波堤の外側に停泊中、台風の影響で岸壁に激突、浸水する事故が起きました(*9)。東京の会社「岡田サルベージ」が復元作業をするとともに、離礁準備の為に荷降ろしもしました(*9)。全港振神戸支部は、岡田サルベージが「船内荷役免許」を保有していないにも関わらず、荷降ろししたことを非難しました(*9)。

 加えて全港振神戸支部は岡田サルベージにハシケを供給していた大阪の会社にハシケ供給を止めさせて、岡田サルベージの復元作業を中断に追い込みました(*9)。結局、岡田サルベージの社長が神戸に向かい、浸水していないエリアの荷役を全港振に振ることで、事態は解決しました(*9)。全港振が当時、実業の世界で大きな影響力を持っていたこと示すエピソードです。全港振の力の背景には、山口組の威光があったと考えられます

 山口組は、甲陽運輸をはじめとした正規の船内荷役会社の経営を握る形で、神戸港の船内荷役事業から合法的収益を得ていたと考えられます。

 山口組が船内荷役業に進出した当初、山口組傘下の船内荷役会社は2次下請の地位を得ているに過ぎませんでした(*10)。元請は三井、三菱、住友などの財閥系の倉庫会社でした(*10)。1956年時点、神戸港の輸出入貨物の7割以上は2次下請の会社により荷役されていました(*10)。しかし1959年3月、港湾運送事業法の改正により、2次下請が禁止されました(*10)。この時に甲陽運輸は1次下請に昇格、また旧2次下請会社は集約化されていきました(*10)。

 山口組はこの機に乗じて「山口組傘下の船内荷役会社」と「非山口組系の船内荷役会社」の合併を進めていきました。「山口組傘下の高砂運輸」と「非山口組系の甲南海運」が合併し、双和運輸が設立されました(*10)。また「山口組傘下の吉川運輸、商栄運輸」と「非山口組系の協成海運」が合併し、日栄運輸が設立されました(*10)。山口組は神戸の船内荷役業界の中で勢力を拡大していったのです。

 1962年6月全港振神戸支部が200口(くち)の労働力調達困難を神戸港船内荷役調整協議会に伝えました(*11)。遡る1956年10月神戸港船内荷役調整協議会が発足しました(*11)。神戸港船内荷役調整協議会は発足して間もなく、神戸港における「1日における荷役口数の上限」を180口に設定しました(*11)。

 当時、港湾荷役現場では1つの作業班は約20人で構成されることになっていました(しかし実際1つの班の人数は、20人を下回ることが多かったようです)(*12)。当時作業班は「口」(クチ)と呼ばれていました(*12)。つまり180口とは、180班×20人=3,600人の荷役労働者のことを指しました。

 当時神戸港における「1日の荷役量」は、その日の「投入労働者数」に規定されていたことが分かります。当時の港湾荷役が主に人力によって担われていたことがよく分かります。

 港湾荷役会社としては、労働者の調達コストを踏まえると、上限量は予め設定されていることが望ましかったはずです。1962年6月までに「1日荷役口数の上限」は200口(約4,000人)に増えました(*11)。つまり神戸港船内荷役調整協議会は「1日における荷役量の増加」を図ったのです。しかし先述したように全港振神戸支部は労働力調達の難しさを訴えました。結果、海運会社が荷役会社に「協力金」を支払う形で、この問題は解決されました(*11)。海運会社による協力金の提供は、神戸港だけに見られた出来事でした(*11)。

 1964年時点、神戸港の船内荷役業の64.2%が日雇い労働者で占められていました(*13)。手配師またはヤクザ組織は、自己経営もしくは関係者の安宿に日雇い労働者を住まわせました(*13)。安宿では賭場が開帳されていました(*13)。賭場は日雇い労働者の賃金の一部を「吸収」する装置として機能していました(*13)。船内荷役業の「周辺ビジネス」も、山口組にとっては大きな収入源だったと考えられます。

 しかし1966年以降、山口組は神戸港の船内荷役業から撤退することになりました。徹底の背景には、複数の要因がありました。1964年以降警察庁はヤクザ組織に対し取締りを強化していきました(*14)。

 取締りは山口組傘下の船内荷役会社に打撃を与えました。1966年4月三友企業社長の岡精義が逮捕されました(*15) (*16)。三友企業は山口組傘下の荷役会社でした(*16)。岡精義は田岡一雄の舎弟であり、終戦後の1945年10月に港湾荷役の下請業及び土建業の三宅組を設立するなど、山口組の船内荷役業に最も詳しかった人物でした(*16)。岡精義は戦時中に東南アジアで軍船荷役に数年間携わるなど、荷役業に明るかったのです (*16)。また1966年6月田岡一雄は全港振の役員及び甲陽運輸社長を辞任しました(*15)。同年同月全港振は解散しました(*15)。

 また同じ1966年6月、港湾運送事業法の改正で、元請の倉庫会社は引き受け量の70%以上を直接荷役しなければならなくなりました(*17)。改正により元請の倉庫会社は、引き受け量の最低70%を自身で荷役、30%を下請けに回してもよいことになったのです。

 また下請に出す際、元請けは下請企業を株式保有により支配することが求められました(*17)。結果、田岡一雄の甲陽運輸は、三菱倉庫の影響下に置かれ、岡精義の三友企業も元請会社の影響下に置かれることになりました(*17)。1959年3月、1966年6月の2回に渡る港湾運送事業法改正から、「下請」は廃止の方向にあったことが読み取れます。

 加えて港湾荷役業界では「コンテナ輸送」という革新がありました。コンテナ船が登場したのです。1956年アメリカ合衆国のシーランド社がアイデアルX号にて世界で初めてコンテナ輸送を行いました(*18)。1966年以降、イギリス-オーストラリア間を皮切りに、国際コンテナ輸送が本格化していきました(*18)。日米間のコンテナ輸送は1967年から始まりました (*19)。

 日本では1968年8月初めてコンテナ船(日本郵船の「箱根丸」)が就航し(*20)、翌1969年以降日本の海運6社がコンテナ輸送を開始していきました(*21)。ジャーナリストの溝口敦は著書で「コンテナは、今まで五日かかった一万重量トンクラスの貨物船荷役を半日ですませ、船舶の年間運航日を、従来の二百日から三百日へと大幅にひきのばした」と述べていました(*20)。コンテナ輸送により、以前に比し荷役作業時間は短縮され(港における船の待機時間も短縮)、海運会社にとって運航に割ける時間が増加したのです。

 以後、港湾荷役業界では人的労働力の大量投入は不要になったと考えられます。よってヤクザ組織は強み(労働者の「調達」と「管理」)を活かせなくなり、港湾荷役業界内では活動領域を狭めていったと考えられます。

 ちなみに1990年代前半まで神戸港はアジアのハブ港でした(*22)。しかし1995年の阪神・淡路大震災によって、神戸港は競争力を失い、アジアにおけるハブ港の地位を他港(台湾の高雄、韓国の釜山)に奪われていましました(*22)。

<引用・参考文献>

*1 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p61

*2 『日の丸コンテナ会社ONEはなぜ成功したのか?』(幡野武彦・松田琢磨、2023年、日経BP),p71-72

*3 『血と抗争 山口組三代目』, p66-67

*4 『血と抗争 山口組三代目』, p82

*5 『血と抗争 山口組三代目』, p26,89

*6 横浜市サイト(港湾局)「コンテナバージ輸送(コンテナ専用はしけ輸送)の詳細」

*7『基本ロジスティクス用語辞典 〔第3版〕』「Gang(ギャング)」(三木楯彦、2009年、白桃書房),p231-232

*8 『血と抗争 山口組三代目』, p87-88

*9 『血と抗争 山口組三代目』, p268-270

*10 『血と抗争 山口組三代目』, p260-262

*11 『血と抗争 山口組三代目』, p287-288

*12 『血と抗争 山口組三代目』, p278-279

*13 『血と抗争 山口組三代目』, p275-277

*14 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p168

*15 『血と抗争 山口組三代目』, p18,25,27-28

*16 『血と抗争 山口組三代目』, p84-85

*17 『血と抗争 山口組三代目』, p344-346

*18 『日の丸コンテナ会社ONEはなぜ成功したのか?』,p64-65

*19 『物流の世界史-グローバル化の主役は、どのように「モノ」から「情報」になったのか?』(マルク・レヴィンソン著、田辺希久子訳、2022年、ダイヤモンド社),p72

*20 『血と抗争 山口組三代目』, p351-352

*21 『日の丸コンテナ会社ONEはなぜ成功したのか?』,p25

*22 『日の丸コンテナ会社ONEはなぜ成功したのか?』,p218-219

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