かつて「大日本平和会」というヤクザ組織が活動していました。1994年4月、兵庫県公安委員会は大日本平和会を「指定暴力団」に指定していました(*1)。大日本平和会は1997年5月、解散しました(*1)。大日本平和会の前身は「本多会」でした(*1)。
1963年3月警察庁は5団体を「広域暴力団」に指定しました(*2)。広域暴力団に指定されたのは「山口組」、「柳川組」(山口組2次団体)、本多会、「錦政会」(現在の稲川会)、「松葉会」でした(*2)。さらに翌1964年3月警察庁は「広域十大暴力団」を発表しました(*2)。広域十大暴力団に指定されたのは山口組、柳川組、「東声会」、本多会、松葉会、錦政会、「住吉会」、「日本国粋会」、「日本義人党」、「北星会」でした(*2)。広域十大暴力団とは、「1963年3月に指定された5団体」と「新規5団体」(東声会、住吉会、日本国粋会、日本義人党、北星会)で構成されていました。
1961年3月頃、本多会は鳥取県鳥取市のヤクザ組織「菅原組」を傘下に収めました(*3)。菅原組は興行を主な資金獲得源としていました(*4)。「地場組織の菅原組」が「広域団体の本多会」に入った背景には、「山陰柳川組」と「小塚組」が1960年9月に山口組の傘下に入ったことがありました(*3)。
山陰柳川組と小塚組は鳥取県米子市を拠点に活動していました(*3)。「山口組の代紋」の使用権利を得た2団体は山陰地方で勢力圏を拡大していきました(*3)。菅原組は、同じ県内で拡大路線に走る2団体に対抗すべく、本多会の傘下に走ったと考えられます。
当時、本多会と山口組は各地で抗争を起こしていました。1957年10月徳島県小松島にて本多会系「福田組」と山口組系「小天竜組」の抗争、1961年10月鳥取県にて本多会系菅原組と山口組系山陰柳川組(山陰柳川組の上部団体は、山口組2次団体「地道組」)の抗争、1963年3月岐阜県大垣市にて本多会系「平田会」と山口組系柳川組の抗争、1964年6月愛媛県松山市にて本多会系「郷田会」と山口組系「矢嶋組」の抗争が起きました(*3)。
小松島、大垣、松山の抗争では、両団体ともに、多数の動員をかけました(*3)。3つの抗争とも、警察組織が両団体の応援部隊を防ぎ、戦線を拡大させませんでした(*3)。
また1963~1967年広島県における「山村組」と「打越組」が抗争をしました(*3)。本多会は山村組を支援し、一方山口組が打越組を支援したことで、「代理戦争」とも呼ばれました(*3)。1960年代に各地において「本多会の下部団体」が「山口組の下部団体」と抗争していたことから、本多会は拡張主義をとっていたことが窺い知れます。
本多会の前身は「本多組」でした(*5)。本多仁介(1898年神戸生まれ)が1940年、本多組を結成しました(*5)。本多組及び本多会の本拠地は神戸市でした(*5)。
本多仁介は10代の頃、「大島組」初代組長の大島秀吉の子分になりました(*5)。大島組は神戸港に利権を持ち、また多数の構成員を抱えていました(*5)。山口組の初代山口春吉組長も大島組の構成員でした(*5)。
本多仁介は1940年に大島組から独立、同年内に本多組を結成しました(*5)。1950年本多組は本多会に改称しました(*5)。
また本多仁介は土建業の「本多建設工業株式会社」の社長でもありました(*5)。太平洋戦争終了(1945年)後の神戸港において本多仁介は倉庫業と沿岸荷役業を手掛けていました(*6)。一方、山口組は船内荷役業を手掛けていました(*6)。
沿岸荷役の主な業務としては、「陸上の荷捌き場」⇔「船舶orはしけ」間における荷の取りおろし、運搬、積みこみ、保管がありました(*6)。
一方、船内荷役の主な業務としては、「船舶」⇔「はしけor岸壁」間における荷の積みおろし、荷捌きがありました(*6)。
本多仁介は1963年7月引退しました(*5)。先述したように同年(1963年)3月警察庁は本多会を「広域暴力団」に指定しました。この指定が本多仁介に引退を促したのかもしれません。
本多仁介の引退と同時に、平田勝市が本多会二代目会長に就任しました(*5)。平田勝市の率いる「平田会」は全国に25の支部を擁していました (*5)。
1963年7月26日神戸市生田区のキャバレー「新世紀」で行われた「初代引退・二代目襲名披露宴」が開催されました(*5)。この披露宴には自民党の有力政治家(大野伴睦など)が多数出席しました(*5)。
当時の政治家とヤクザ組織が「近い距離」にいたことを物語ると同時に、本多会が国政とも関わりがあったことを物語っています。
1964年5月25日神戸市須磨区の料亭にて平田勝市は、松葉会トップの藤田卯一郎会長と「五分の兄弟盃」を交わし、両団体は親戚関係(同盟関係)になりました(*7)。
同盟を結ぶに至ったきっかけは、前年(1963年)9月に起きた石川県山中温泉における両団体の抗争でした(*7)。抗争の当事者は、本多会「山中支部」と松葉会「金沢支部」でした(*7)。
1961年山梨県の石和温泉が開湯しました(*8)。石和温泉は「歓楽温泉」(性風俗サービスも備えた温泉地)でした(*8)。同時期、歓楽温泉は日本各地にありました(*8)。
抗争の舞台になった山中温泉、また同じ石川県の山代温泉、片山津温泉は日本でも有数の歓楽温泉でした(*8)。
性風俗産業はヤクザ組織の利権です。また1960年代前半温泉地には常設の賭博場もありました (*9)。
先述したように、1963年3月警察庁は本多会と松葉会を含む5団体を「広域暴力団」に指定しました。石川県山中温泉の抗争から、広域団体が北陸にも進出していたことが窺えます。北陸進出の一因としては、歓楽温泉における利権獲得があったと考えられます。
山中温泉には本多会が先に進出し、山中支部長がヌードスタジオを経営していました(*7)。その後、松葉会が山中温泉に参入してきました(*7)。石川県山中温泉の抗争は、その後、和解が成立しました(*7)。そして和解後、両団体トップが「五分の兄弟盃」を交わすことになったのです(*7)。
「五分の兄弟」になった2人は、その後「新たな兄弟」を加えました。平田勝市と藤田卯一郎は1964年12月、5つの独立団体トップと兄弟盃を交わしました (*7)。新たに加わった5名は、「中島連合会」(京都府)の図越利一、「稲葉地一家」(愛知県)の上篠義夫、「直嶋義友会」(大阪府)の山田祐作、「藤原会」(大阪府)の藤原秋夫、「中泉一家」(静岡県)の播磨福策でした(*7) 。本多会は、この七人兄弟盃により、親戚団体を増加させたのです。
1964年以降の警察庁の取締り強化(通称:第1次頂上作戦)により、本多会は1965年解散しました(*10)。同年(1965年)、錦政、住吉会、松葉会なども解散しました(*10)。「第1次頂上作戦」の結果、「広域十大暴力団」の中で解散しなかったヤクザ組織は山口組と日本義人党だけでした (*11)。
後に、旧本多会勢力は「大日本平和会」を結成しました(*1) (*12)。
「木下会」は、元々独立団体として活動していましたが、後に本多会に加入しました(*12)。木下会の加入時、本多会は「本多仁介会長体制」(1950~1963年)でした(*12)。以降、木下会は兵庫県姫路市を拠点に活動し、「本多会の有力2次団体」として有名になりました(*12)。しかし「本多会の解散」(1965年)から「大日本平和会結成」に至る間、木下会は独立を果たしました(*12)。
1969年大日本平和会・2次団体「山中組」構成員が、山口組・2次団体「弘田組」(愛知県)傘下の「神谷組」事務所を襲撃、神谷組構成員4人を殺傷しました(*13)。同年(1969年)7月弘田組襲撃チームが名古屋市内にて、大日本平和会・2次団体「豊山一家」組長の豊山玉植を殺害しました(*13)。豊山玉植は大日本平和会の「春日井支部長」を務めていました(*13)。1969年時点で大日本平和会は愛知県でも活動していたことが分かります。
1994年4月時点(「指定暴力団」の指定時)、大日本平和会の活動範囲は兵庫県、大阪府、京都府、鳥取県、香川県、愛媛県の2府4県で、構成員数は330人でした(*1)。
前身の本多会(1950年~1965年)が拡張主義をとっていた時代、本多会の活動範囲は16府県で、その下部団体数は166で、構成員数は4,090人でした(*14)。
先述したように大日本平和会は1997年5月、解散しました。解散時、大日本平和会の構成員数は40人未満だったといわれています(*15)。1994年4月(330人)に比し、構成員数は大きく減少していたことになります。
1997年5月時点において大日本平和会トップは、二代目会長の平田勝義でした(*1)。平田勝義は、平田勝市の実子でした(*16)。解散の理由としては、構成員数の減少、トップの後継者難が挙げられました(*1)。
構成員数の減少に関しては、有力2次団体「至誠会」(愛媛県)の解散が大きく影響したといわれています(*1)。至誠会会長・竹形剛の死去後、至誠会は解散しました(*1)。平田勝義二代目会長体制下、竹形剛は1次団体において「理事長」を務めていました(*17)。役職名から竹形剛は大日本平和会の最高幹部であったと推測されます。
<引用・参考文献>
*1 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p282-283
*2 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、1998年、講談社+α文庫), p177,188
*3 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p51-72
*4 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂),p166
*5 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p32-37
*6 『血と抗争 山口組三代目』,p89
*7 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社),p99-103
*8 『週刊実話』2016年1月21日号「風俗新潮流 第34回 温泉風俗」(松本雷太著), p181-183
*9『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(鈴木智彦、2011年、文春新書), p195
*10 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p170
*11 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p36-38
*12 『実話時代』2016年8月号, p52
*13 『完全保存版 TOWN MOOK 山口組 百年の血風録』「司六代目「武闘履歴」に見える「未来への指針」」(山田英生、2015年、徳間書店),p137
*14 『血と抗争 山口組三代目』,p107
*15 『ヤクザ大全 その知られざる実態』(山平重樹、1999年、幻冬舎アウトロー文庫),p247
*16 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p54
*17 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑧ 現代ヤクザマルチ大解剖 ②』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2005年、三和出版),p137
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