「山口組」2次団体・「國粹会」は、元々、独立団体でした(*1)。しかし國粹会は、2005年9月、山口組の傘下に入りました(*1)。國粹会は銀座、渋谷、六本木など首都圏の繁華街に縄張りを持っており(*2)、國粹会の山口組加入は関東のヤクザ組織にとっては驚くべき事態でした。
「住吉会」や「稲川会」の下部団体の中には、國粹会の縄張りを借りていた組織がありました(*3)。「大家」が國粹会で、「店子」が住吉会や稲川会の下部団体という関係が形成されていたのです。しかし2005年9月以降は「大家」が「山口組2次団体としての國粹会」になった為、住吉会や稲川会の下部団体にとって縄張りからの「退去」を要求されうる事態となったのです。
國粹会は1958年に結成されました(*4)。結成時の名称は「日本国粋会」で、結成時から1991年まで組織名は日本国粋会でした(*4)。
日本国粋会の組織形態は連合体でした(*4)。初期の最高位職は理事長で、初代理事長に「田甫一家」の青沼辰三郎、二代目理事長に「前川一家」の荻島峯五郎、三代目理事長に「金町一家」の佐藤芳行が就きました(*4)。その後、日本国粋会の最高位職は会長に代わりました(*4)。「生井一家」の森田政治が初代会長に就きました (*4)。森田政治初代会長時代の1965年12月、警察庁の「頂上作戦」の影響を受け、日本国粋会は解散しました(*4)。森田政治は1966年逮捕されました(*4)。
1958年から1965年までの7年間で、4人がトップを務めたことから(3回の入れ替わり)、日本国粋会トップの権限は狭かったことが考えられます。日本国粋会におけるトップとは、「2次団体間の調整役」という役回りであったことが窺えます。
1965年4月以前の日本国粋会には生井一家、田甫一家、金町一家、前川一家、「青柳組」「小金井一家」「佃政一家」「落合一家」「中杉一家」「辺見一家」「山本一派」の計11団体が加盟していました(*5)。
実際、日本国粋会の加盟組織は、上記の11団体だけではなかったです。1961年時、長野県の博徒組織「信州斎藤一家」が日本国粋会に加盟していました(*6)。
時代は前後していると思われますが、各加盟団体(信州斎藤一家を除く)の勢力を確認しておきましょう。
『公安百年史 - 暴力追放の足跡』(1978年)の「主要暴力団体」(一部1966年調査を含む)によれば、生井一家(博徒組織)の構成員数は549人、田甫一家(博徒組織)の構成員数は69人、金町一家(博徒組織)の構成員数は70人、前川一家(博徒組織)の構成員数は291人、青柳組(青少年不良団=愚連隊)の構成員数は64人、小金井一家(博徒組織)の構成員数は482人、佃政一家(博徒組織)の構成員数は198人、落合一家(博徒組織)の構成員数は251人、中杉一家の(博徒組織)の構成員数は122人、辺見一家の(博徒組織)の構成員数は35人、山本一派に関しては構成員数の資料がありませんでした(*7)。
構成員数を降順(1位~10 位)で並べると、1位:生井一家(549人)→2位:小金井一家(482人)→3位:前川一家(291人)→4位:落合一家(251人)→5位:佃政一家(198人)→6位:中杉一家(122人)→7位:金町一家(70人)→8位:田甫一家(69人)→9位:青柳組(64人)→10位:辺見一家(35人)となります。
構成員数の点からいえば生井一家と小金井一家の「二強」状態だったことが分かります。
また上記から日本国粋会では博徒組織が多数派を占めていたものの、青柳組のように愚連隊も加盟していたことが分かります。
先述した日本国粋会解散(1965年12月)前には、小金井一家、佃政一家、落合一家、中杉一家、辺見一家、山本一派の計6団体が日本国粋会を同年(1965年)5月に脱退しました(*5)。
その後、旧日本国粋会勢力は、新たな連合型組織として「国粋睦」を結成しました(*8)「東京斉藤一家」の山田政雄が國粹睦の代表に就きました(*8)。
しかし1969年4月小金井一家、中杉一家、辺見一家の3団体が国粋睦から脱退しました(*9)。小金井一家は老舗博徒組織で、中央線沿線一帯、新宿、川崎に縄張りを持っていました(*10)。国粋睦の勢力範囲の1/3は、小金井一家のものだろうと言われていました(*9)。脱退勢力は新組織「二率会」を立ち上げました(二率会は2001年解散)(*9) (*10)。小金井一家らの脱退後、1969年国粋睦は組織名を「日本国粋会」に改称しました(*8)。
日本国粋会の会長職には、引き続き東京斉藤一家の山田政雄が就きました(*8)。1978年「吉田川一家」の木村清吉が日本国粋会の三代目会長に就きました(*4)。その後1991年、金町一家の工藤和義が日本国粋会の四代目会長に就きました (*4)。四代目会長の工藤和義は組織名を日本国粋会から「國粹会」に改めました(*4)。
1993年3月國粹会は稲川会と親戚関係を結びました(*4)。國粹会は翌月(1993年4月)住吉会とも親戚関係を結びました(*4)。2001年工藤和義は、國粹会の組織形態を連合型から、2次団体を垂直的に治める直参型に変更すべく、組織改革に着手しました(*2)。同年(2001年)、日本国粋会にかつて加盟していた小金井一家らの1次団体・二率会が解散しました(*10)。
しかし國粹会内で組織改革に反対する声が出ました(*2)。反対派の3組織(生井一家、佃繁会、落合一家)は國粹会を脱退し、國粹会と抗争をしました(*2)。2003年抗争は終結しました(*2)。3組織トップは引退することになりましたが、3組織の勢力は國粹会に戻ることになりました(*2)。
2000年時点で國粹会の勢力は、活動範囲「1都7県」、構成員数「約520人」でした(*4)。4年後の2004年時点で國粹会の勢力は、活動範囲「1都4県」、構成員数「約350 人」でした(*11)。2005年山口組に加入した國粹会ですが、内部抗争の影響もあったのか、勢力が縮小していたことが分かります。
<引用・参考文献>
*1 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p32
*2 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p41-44
*3 『実話時代』2014年8月号, p43
*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p162-165
*5 『公安百年史 - 暴力追放の足跡』(藤田五郎編著、1978年、公安問題研究協会),p717-719
*6 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社),p46-56
*7 『公安百年史 - 暴力追放の足跡』,p707-708
*8 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p27-28
*9 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p111
*10 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』, p11-14
*11 警察庁「平成16年の暴力団情勢」
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