「旭琉会」二代目会長・多和田真山の体制時(1976年12月~1982年10月)、沖縄県では「シマ割り」という縄張り再編が行われました(*1) (*2)。
シマ割りは1982年1月に行われました(*1)。そのシマ割り対象地域は、沖縄本島でした(*1)。シマ割りにより沖縄本島の縄張りは14区画に分割されました(*1)。1次団体(旭琉会)は、14組織(2次団体)に対し、それぞれの縄張りの区画を選定しました(*1)。シマ割り(縄張り再編)と同時に、多和田真山会長は各2次団体に月額約30万円を上納させました(*1)。
実は1980年9月、旭琉会は2次団体の統合・整理に着手して、2次団体の数を14に絞りました(*1)。それまで旭琉会2次団体数は14以上ありました(*1)。2次団体の統合・整理は、シマ割り(1982年1月)の布石だったのです。
ちなみに愛知県の博徒組織「瀬戸一家」でも1955年頃、六代目総裁・川島五郎が、一家内の縄張りを再編しました(*3)。
ヤクザ組織業界の縄張りは、当然、法律上の保障がありません。関西地方の場合、縄張りは「日々の組織活動」によって決定されていく傾向がありました(*4)。つまりその時の組織の強さによって、その縄張りの範囲が拡大もしくは縮小していったのです。一方関東地方では、「縄張り主の組織」が代々その縄張りを継承していく傾向がありました(*4)。
シマ割り (1982年1月)以前の沖縄県のヤクザ組織業界では、関西地方と同じく、その時の組織の強さが縄張りを確定するという考えがありました(*1)。ゆえにシマ割りの導入は沖縄県のヤクザ組織にとって衝撃的だったといえます。
シマ割りの短所は、縄張りによって「利権の規模」が異なる為、2次団体間で不満が生じやすかったことです(*1)。一方、長所としては、縄張りが固定化されるため、2次団体間の争いが減ることがありました(*1)。
多和田真山会長は「2回目のシマ割り」を1983年1月に全面実施する計画を立てていました(*5)。この「2回目のシマ割り」において沖縄本島の縄張りは16区画に分割される予定でした(*5)。もしくは15区画に分割される予定だったという資料もあります(*2)。
「2回目のシマ割り」の計画段階において旭琉会内で不満が高まっていきました(*5)。
1982年10月9日午前1時頃、沖縄市内のスナック内で多和田真山会長は射殺されました(*2)。この射殺事件において「富永一家」(旭琉会2次団体)の構成員2人(備瀬博と糸数真)が逮捕されました(*2)。糸数真が多和田真山会長を直接射殺しました(*2)。
1983年5月「翁長一家」(旭琉会2次団体)の翁長良宏総長が、旭琉会の三代目会長に就任しました(*6)。2回目のシマ割りは中止されました(*6)。また上納金は一時廃止されました(*6)。後に、月額15万円を納付する上納金制度が復活しました(*6)。
<引用・参考文献>
*1 『洋泉社MOOK・沖縄ヤクザ50年戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2004年、洋泉社), p100-102
*2 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂),p63-65
*3 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社),p14
*4 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p64
*5 『洋泉社MOOK・沖縄ヤクザ50年戦争』,p108-109
*6 『戦後ヤクザ抗争史』, p67
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