義人党

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 かつて義人党というヤクザ組織がありました。東京を拠点とする1次団体のヤクザ組織で、1992年1月に解散しています(*1)。義人党は太平洋戦争終了時の1945年、高橋義人によって立ち上げられました(*1)。発足時「新日本義人党」と名乗っていました(*1)。義人党の表看板は右翼活動を基本とする政治団体でした(*1)。高橋義人は元々、土建業の小千鳥組組員でした(*1)。小千鳥組は遊郭専門の土建を稼業とする他に(*2)、浅草近辺の映画館のフィルム運びや用心棒の仕事(*3)、日雇い労働者相手の屋外博打なども行っていました(*4)。小千鳥組は土建業の組織である一方、「暴力装置」(暴力行使を躊躇しない構成員ら)を持ち、それを活かして経済活動をするヤクザ組織でもあったのです。小千鳥組解散後、義人党は小千鳥組一部勢力を組み入れています(*5)。

 新日本義人党結成の前年1944年、高橋義人は下谷一帯を縄張りとする博徒組織・武蔵屋一家六代目の跡目を継いでいます(*1)。土建業の小千鳥組出身者が博徒組織トップに就任した格好です。当時戦争の影響で、武蔵屋一家の力が低下傾向にあったことが背景にあります(*1)。高橋義人は義人党結成した後も、武蔵屋一家の名称を存続させていきます。高橋義人の2人の実弟(正義と信義)も義人党の運営を担っていました。後に正義は武蔵屋一家七代目、信義は武蔵屋一家八代目となります(*1)。

 1950年、団体等規正令により新日本義人党は解散に至ります(*1)。しかし1952年、日本義人党として復活します(*1)。1960年には、日乃丸青年隊という政治団体も結成します(*1)。当時、義人党は千人を超える構成員を抱えていたとされています(*1)。義人党の特徴として、構成員の多くが土建業関係の仕事やその他の正業に就いていたことがあります(*1)。義人党内の小千鳥組出身者が土建業界と結びつきを持っていたことは想像に難くありません。小千鳥組出身者と土建業界の結びつきを活かして、義人党の構成員は土建業界で正業に就いていたと考えられます。

 1964年から開始された警察庁の「第一次頂上作戦」における「指定十団体」の中に、義人党は含まれていました(*1)。十団体の中で、解散しなかったのは義人党と山口組の2団体でした(*1)。義人党が解散に至らなかった要因の1つとして、構成員の収入が正業就労によるものだったことが考えられています(*1)。

 1991年、義人党下部団体が街宣車二百数十台をもって、世田谷区北沢のパチンコ店に対して圧力をかける動きがありました(*6)。義人党下部団体はパチンコ店に対して発砲や火炎瓶投げつけの事件も起こします(*1)。背景には、北沢のパチンコ店が当時ヤクザ組織排除の目的で、景品交換の新方式を導入したことがありました(*6)。結果、義人党は警察当局の厳しい取締りを受けます(*6)。1992年1月、義人党は解散します。当時義人党の勢力は、構成員約300人の規模でした(*6)。同年3月1日に施行される暴対法の影響も解散要因の1つと考えられます(*1)。解散した義人党の勢力は、武蔵屋一家として活動を再開、住吉会に加入しました(*1)。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p36-38

*2 『破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲』(笠原和夫、2004年、ちくま文庫), p76

*3 『破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲』, p67

*4 『破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲』, p75

*5 『破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲』, p78

*6 『現代ヤクザのウラ知識』(溝口敦、1999年、宝島社文庫), p95

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