寄居一門

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 「寄居一門」(寄居系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)は東日本で活動してきました。寄居一門の源流組織は、鹿島峰太郎が群馬県で興したテキヤ組織でした(*1)。組織名は、鹿島峰太郎の出身地・埼玉県寄居町に由来しました(*1)。

 テキヤ業界では所属組織(本家)から独立する際、「一家名乗り」「分家名乗り」という2つの方法がありました。実績のある子分は「一家名乗り」が許されました(*2)。また一般的に、実績のある舎弟(トップの弟分)には「分家名乗り」が許されました(*2)。一家名乗りした者及び分家名乗りした者は、所属組織から独立することができました(*2)。

 しかし一家名乗りに関しては、名目上するものの、自身の組織を立ち上げない者が多かったです(*2)。その場合、一家名乗りした本人だけで露店商売をしました(*2)。いわゆる「一人親方」として活動していったのです。

 一家名乗りもしくは分家名乗りにより独立はするものの、各テキヤ組織等は基本的に、自身の源流となる「本家」及び「同じ系統の組織等」とはつながりを持ち続けていきました(*2)。テキヤ組織に関する書籍において、「本家」及び「同じ系統の組織等」の総称として「一門」という言葉が使われていました(*2)。各一門は、一門の統括団体として、連合会(1次団体)を結成しました(*2)。

 寄居一門の主な活動範囲は北海道、東北、関東、甲信地区でした(*1)。全盛期には寄居一門全体で約3000人も構成員がいたといわれています(*1)。特に寄居一門の北海道勢は、北海道のテキヤ業界において、丁字家、源清田と並び「三大勢力」の1つに位置付けられていました(*3)。

   寄居一門の源流組織(鹿島峰太郎の興した組織)は、結成当初の名前は「舛峯一家」だったようで、後年「寄居宗家(よりいそうけ)」と呼ばれました(*4)。宗家とは、いわゆる「本家」のことです(*5)。

 「寄居宗家二代目」には小島長次郎(1853年生まれ)が就きました(*4)。小島長次郎が二代目を継いだ後、鹿島峰太郎は1902(明治三十五)年、83歳で死去しました(*4)。阿佐美藤吉(1871年生まれ)が「寄居宗家三代目」を継ぎました(*4)。次に小島平太郎(1896年)が「寄居宗家四代目」を継ぎました(*4)。小島平太郎は、二代目の小島長次郎の実子でした(*4)。

 1974年寄居一門の各組織が結集し、「全日本寄居連合会」が発足しました(*1)。先述した一門の統括団体が、寄居の場合、この全日本寄居連合会でした。全日本寄居連合会は、関東テキヤ組織の親睦団体「関東神農同志会」(1984年結成)(*6)に参加していました(*7)。

 「寄居分家」三代目の飯久保武が、全日本寄居連合会の初代会長に就きました(*1)。寄居分家は群馬県前橋市を拠点としていました (*1)。

 先述したように、テキヤ業界では独立方法として主に「一家名乗り」「分家名乗り」の2つがありました。「一家名乗り」と「分家名乗り」を分ける1つが、「縄張り割譲の有無」でした。出身母体は、一家名乗りした者には、縄張りを割譲しませんでした(*8)。一方、分家名乗りした者には、出身母体は縄張りを割譲しました(*8)。

 「寄居分家の初代」は小島房吉でした(*4)。小島房吉の元の姓は宇野でした(*4)。宇野房吉(後の小島房吉)は1880(明治十三)年、美濃国(現在の岐阜県)で生まれました(*4)。宇野房吉は前橋監獄署における服役生活で、寄居系組織の親分・小島亀吉と出会いました(*4)。

 小島亀吉は、先述の小島長次郎(寄居宗家二代目)の兄弟でした(*4)。宇野房吉は出所後、小島亀吉の娘・サクと結婚し、以後「小島」姓を名乗っていきました(*4)。寄居分家初代の小島房吉は1934(昭和九)年、55歳で死去しました(*4)。

 「寄居分家二代目」には飯久保新造が就きました(*4)。飯久保新造は1933(昭和八)年、前橋市議会議員に当選し、政界に進出しました(*4)。飯久保新造は1957年、64歳で死去しました(*4)。先述の飯久保武が1957年、寄居分家三代目を継ぎました(*1)。

 後に、寄居一門の中で、広域団体に移籍する動きが続出しました。1989年、北海道の「寄居関保連合」(現在の山口組2次団体・旭導会)が山口組の傘下に入りました(*3)。同年、福島県福島市の「寄居田中宗家連合二代目菊心会」が住吉連合会の2次団体「大日本興行」に入りました(*3)。

 1990年には北海道釧路市の「寄居勇心会」(現在の住吉会2次団体・勇心会)が住吉連合会、福島県郡山市の「寄居田中宗家連合真会」(現在の稲川会2次団体・紘龍一家)が稲川会に移籍しました(*3)。

 2009年11月時点、山口組2次団体「弘道会」トップの髙山清司会長の舎弟として「七代目寄居宗家 川田清史総長」の名前がありました(*9)。先述した寄居宗家は2009年時点、「弘道会の傘下組織」として活動していたのです。当時(2009年)、寄居宗家は群馬県太田市を拠点としていました(*9)。

<引用・参考文献>

*1 『ヤクザ大辞典 親分への道』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p155-170

*2 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p28,99-100

*3 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p146-150

*4 『実話時代』2016年1月号「にっぽん名俠選 寄居分家初代 小島房吉」(大谷浩二), p98-102

*5 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』,p179

*6 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p76

*7 『FOR BEGINNERS シリーズ㊷ 右翼』(第Ⅱ部著者・猪野健治、1999年、現代書館), p157

*8 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p72-73

*9 『BAMBOO MOOK 二代目弘道会総覧』(ジェイズ・恵文社編、2010年、竹書房),p100-103,118

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