九州の広域団体・道仁会は1971年、初代会長になる古賀磯次によって結成されました(*1)。古賀磯次は久留米市の高校を卒業後、久留米信用金庫に就職しています(*1)。2年で久留米信用金庫を辞めて、地元の博徒組織に入りました(*1)。古賀磯次は1934年生まれです(*1)。1950年代に古賀磯次はヤクザ社会に足を踏み入れたことになります。道仁会は久留米市を拠点にしています。道仁会には福岡県の筑後地方の組織に加えて、佐賀県や熊本県に拠点を置く組織も入っていました(*2)。
1964年以降、警察庁は広域に活動するヤクザ組織に対して厳しい取締り(通称:頂上作戦)を実施します(*3)。結果、「指定十団体」のうち1964年以降山口組と義人党を除くヤクザ組織が、名目上の解散を余儀なくされました (*3)。しかし1969年住吉会旧勢力の新団体として住吉連合が、1972年には錦政会旧勢力の新団体として稲川会が誕生します(*4)。ヤクザ組織が再び活発的に動き始めた時期に、道仁会が結成された1971年は含まれます。
道仁会は1978年3月に大牟田市の馬場一家と抗争を起こします(*5)。発端は熊本県玉名市の温泉街のスナックで起きた事件です(*5)。玉名市には道仁会2次団体の古賀組(トップは古賀徹)が拠点を置いていました(*2)。1978年3月13日、玉名市の温泉街のスナックで飲んでいた馬場一家の馬場隆組長らの集団と、古賀組の古賀徹組長らの集団が乱闘する事態となりました(*5)。道仁会側の発砲で馬場一家の2人が重傷、馬場隆組長も左手中指切断という怪我を負いました(*5)。玉名市スナックでの乱闘は道仁会優位な形で終わりました。
馬場一家は3月22日、久留米市の道仁会本部事務所に報復を行います(*5)。車で乗りつけた数人が短銃で道仁会本部事務所を銃撃します(*5)。入口近くにいた道仁会組員にも弾は入り、道仁会は死者1人、重傷者2人の被害者を出します(*5)。道仁会は翌23日大牟田市の馬場一家本部事務所を銃撃します(*5)。この時点で、道仁会と馬場一家が直接争う展開は一旦中断されます。1978年時点で、大牟田市には馬場一家の他に村上一家という独立団体が活動していました(*5)。後に村上一家は道仁会に入ることになります(2006年道仁会から脱退)(*6)。5年後の1983年6月、道仁会は再び大牟田市に進出、馬場一家と抗争を起こします(*7)。抗争は1984年2月まで続きました(*7)。抗争の結果、馬場一家は消滅しました(*7)。
道仁会は1982年3月、久留米市に拠点を持つ向山一家とも抗争を起こしています(*7)。1971年の道仁会結成時、筑後地方の多くの組織が道仁会に加わる中、向山一家は独立団体としての道を選んでいました(*2)。向山一家は筑豊地方の飯塚市にも拠点を持っていました(*2)。道仁会側の主張として、抗争に至った背景には、向山一家が道仁会傘下に収まる際の処遇問題がありました(*8)。1982年の抗争前から、向山一家は道仁会傘下に収まる意向を持っていました(*8)。向山一家トップの向山孝は「舎弟」としての立場を望みましたが、道仁会からは「子分」の立場を主張された結果、向山一家の傘下入りの動きがこじれていました(*8)。向山一家の傘下入りがこじれたことだけが抗争の要因ではなく、抗争に至った要因は他にもあると考えられます。銃撃戦の抗争の結果、道仁会は向山一家を解散に至らせます(*7)。道仁会はその後も1986~1987年山口組2次団体の伊豆組、稲葉一家と抗争をします(*7)。
<引用・参考文献>
*1 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』(別冊宝島編集部編、2016年、宝島社), p58-59
*2 『男道 九州最強といわれたヤクザ』(安田雅企、1993年、三一書房), p78-79,107
*3 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p36-38
*4 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』, p16-17,28-29
*5 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p90-94
*6 『日本のヤクザ100人 闇の支配者たちの実像』, p184-185
*7 『実話時代』2013年11月号, p24
*8 『男道 九州最強といわれたヤクザ』, p108-109
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