「倭奈良組」は大阪の老舗博徒組織でした(*1)。吉川奈良吉が倭奈良組を立ち上げました(*1)。吉川奈良吉の出身地は奈良で、青年時代に吉川奈良吉は大阪に出ました(*1)。
吉川奈良吉は大阪で博徒としての修行を開始しました(*1)。倭奈良組は初代・吉川奈良吉の時代に勢力圏を拡大していきました(*1)。
最盛期の倭奈良組は、大阪の南一帯から現在の近鉄沿線の奈良に至るまでの地域を縄張りにしていました (*1)。倭奈良組構成員数は約3,000人といわれました(*1)。倭奈良組において勢力は「いろは順」に48組に編成されました(*1)。倭奈良組において2次団体数は48だったのです。各組(2次団体)には「組長」、「若頭」の職が設けられました(*1)。
その後、倭奈良組では石田郁三が二代目組長、橋本正男が三代目組長を継承しました(*2)。
1990年12月、倭奈良組(四代目組長・高安輝雄)は山口組2次団体「倉本組」の傘下に入りました(*3)。三代目組長・橋本正男が引退し、高安輝雄が四代目を継承した直後に、倭奈良組は倉本組の傘下に入りました(*3)。
また同時期、大阪の老舗博徒組織「九紋龍組」が山口組2次団体「吉川組」の傘下に入りました(*3) (*4)。九紋龍組は大正時代(1912~1926年)に結成されました(*3) (*4)。
<引用・参考文献>
*1 『実話時代』2016年3月号, p105-106
*2 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p62,199
*3 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p150-152
*4 『実話時代』2016年1月号, p51
コメント
コメント一覧 (2件)
関東では、貸元という言葉が、ありますが、関西では無いのでしょうか?
倭奈良組さん
コメントありがとうございます!
関西における「貸元」にあたる言葉は、知らないですね(すみません)。
ちなみに代貸に該当する言葉だと「盆守り」がありました。
関西と関東だと、博徒組織も色々と違うんでしょうね。