出羽家一家

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 「松葉会」の2次団体「出羽家一家」は、明治時代(1868~1912年)末期に東京浅草で結成され、元々は博徒組織でした(*1)。元々は山本作造が「出羽屋」という屋号を使っており、後に山本修三に自身の屋号(出羽屋)を名乗らせたといわれています(*1)。また後に出羽屋は「出羽家一家」に改称したといわれています(*1)。

 後年、出羽家一家は山本修三を「初代」に位置付けました(*1)。

 四代目総長・武井紀義の体制時、出羽家一家は松葉会に加入しました(*2)。1962年武井紀義が出羽家一家四代目を継承しました(*2)。ゆえに1962年以降、出羽家一家は松葉会に加入したことが推測されます。

  武井紀義は1911年(明治四十四年)11月26日、群馬県倉賀野で生まれました(*3)。若かりし頃の武井紀義は、高崎市で「関東流星団」(不良少年団)を率いていました(*3)。武井紀義は関東流星団の団長でした(*3)。後に武井紀義は、「関根組」の木津政雄の舎弟となったことで、関根組の構成員となりました(*3)。

 木津政雄(武井紀義の兄分)は元々、博徒組織「上萬一家」の「飯島」(上萬一家内における貸元級の稼業名)二代目貸元・飯島竜二(岩佐竜二郎)の子分もしくは舎弟でした(*3)。後に木津政雄は「飯島」(上萬一家)の組織から、関根組に移籍しました(*3)。

 1949年6月関根組はGHQ団体等規正令により解散しました(*4)。1953年3月、旧関根組勢力が松葉会を発足させました(*4)。

 1978年橋本時雄が出羽家一家五代目を継承し(*1)、武井紀義は隠居しました(*3)。橋本時雄は死去する1993年まで、五代目総長を務めました(*1)。橋本時雄(出羽家一家五代目)は、武井紀義(出羽家一家四代目)の舎弟でした(*3)。

 五代目体制時(1978~1993年)が出羽家一家の全盛期で、その当時の出羽家一家は300~400人ぐらいの構成員を抱えていたといわれています(*1)。また橋本時雄は博徒、テキヤを問わずに浅草を拠点とするヤクザ組織の親睦団体「浅草親友会」を立ち上げました(*1)。

 浅草親友会には「足尾組」「丁字家宗家」「丁字家芝山」、出羽家一家、「新門本家」「義人党」「高橋組」「姉ヶ崎」「姉ヶ崎五十嵐」「姉ヶ崎甲州家」「家根弥一家」「飯島山春」「飯島倉持」「日本国粋会・入村」「日本国粋会・田甫一家」などの勢力が加盟していました(*5)。

 橋本時雄は「競輪の橋本」と呼ばれるほど、競輪業界に深く関わっていました(*6)。実際、橋本時雄は競輪において「八百長レースの元締め」のような役割を果たしていました(*6)。

 当時、北は函館競輪場から南は九州長崎競輪場に至る全国各地の競輪場で「橋本の若者」(橋本時雄の配下)が数百人規模で活動していました(*7)。

 浅草親友会に加盟していた新門本家は文字通り、新門一門の本家だったと考えられます。新門一門内にはテキヤ(露店商)勢力がおり、その中の島根鋭一は浅草で活動した後、1924年(大正十三年)頃に大森に拠点を移し、「島根組」を興しました(*8)。島根組は興行等を手掛け、二十数人の子分を擁していました(*8)。太平洋戦争終了(1945年)後も、島根組は大森駅付近で活動していきました(*8)。

 松葉会の東京勢としては博徒組織「榎戸一家」も有名でした(*9) (*10)。1978年時の資料(一部1966年時の調査も含む)によれば、榎戸一家は葛飾区亀有に拠点を置き、103人の構成員を擁していました (*10)。当時、榎戸一家の責任者は山中吾一でした(*10)。山中吾一(吾市)は榎戸一家の五代目総長でした(*9)。

 榎戸一家は幕末に結成されました(*9)。榎戸一家の初代は榎戸末太郎でした(*9)。榎戸末太郎は南足立郡花畑村(現在の東京都足立区花畑)に住んでいたといわれています(*9)。

 1984年9月、佐藤武男が榎戸一家の七代目を継承しました(*9)。当時の佐藤武男は、1次団体・松葉会では、副会長を務めていました(*9)。

 1994年松葉会は1次団体内にて直参制を導入しました(*11)。直参制とは1つの統治体制であり、直参とは「親分から直接盃を受けた舎弟、子分」のことでした(*11)。1次団体が直参制を導入することは、「1次団体トップ」が「2次団体トップら」と親子盃もしくは兄舎弟盃を交わすことを意味しました。

 直参制の導入により、松葉会(1次団体)は「擬制的親族集団」になったのです。1次団体トップが「親分」(もしくは「兄分」)、2次団体トップらが「子分」(もしくは「舎弟分」)になったことにより、1次団体と2次団体の関係は垂直的になりました。言い換えると1次団体と2次団体の「支配-被支配関係」が強化されていきました。

 1994年以前の松葉会は連合型の組織形態であり(*11)、その統治体制において1次団体と2次団体の「支配-被支配関係」は緩かったです 。1994年の直参制導入で、松葉会の統治体制は変わったのです。

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2016年7月号, p31-33

*2 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p174-175

*3 『親分衆(関東編)』(藤田五郎、1989年、富士出版),p132-142

*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p157

*5 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p321

*6 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫), p231-232

*7 『公安大要覧』,p230

*8 『公安大要覧』,p317

*9『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』,p184

*10『公安百年史 - 暴力追放の足跡』(藤田五郎編著、1978年、公安問題研究協会),p707

*11『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫),p329-333

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 出羽家は私の父である昇の父、私の父は養子で山本に育てられ、浅草で今で言うフリーパスで遊べたそうです、祖父はテキヤの総元締めで、亡くなった時は鶯谷から浅草までお悔やみの行列ができたと、父から聞いていました、目黒にある出羽家のお墓は、叔母である秀子が亡くなってから、入る人が無く墓石は整理したようで、今は空いています、

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