「松葉会」の2次団体「出羽家一家」は、明治時代(1868~1912年)末期に東京浅草で結成され、元々は博徒組織でした(*1)。元々は山本作造が「出羽屋」という屋号を使っており、後に山本修三に自身の屋号(出羽屋)を名乗らせたといわれています(*1)。また後に出羽屋は「出羽家一家」に改称したといわれています(*1)。
後年の出羽家一家は山本修三を「初代」に位置付けました(*1)。
四代目総長・武井紀義の体制時、出羽家一家は松葉会に加入しました(*2)。1962年武井紀義は出羽家一家四代目に就任しました(*2)。ゆえに1962年以降、出羽家一家は松葉会に加入したことが推測されます。
当時の松葉会は「連合型」の組織形態をとっていました(*3)。武井紀義は出羽家一家の出身者ではなく、旧「関根組」の幹部でした(*2)。1949年6月関根組はGHQ団体等規正令により解散しました(*4)。1953年3月、旧関根組勢力は松葉会を発足させました(*4)。
1978年橋本時雄が出羽家一家五代目総長を継承しました(*1)。橋本時雄は死去する1993年まで、五代目総長を務めました(*1)。
五代目体制時(1978~1993年)が出羽家一家の全盛期で、その当時の出羽家一家は300~400人ぐらいの構成員らを抱えていたといわれています(*1)。また橋本時雄は博徒、テキヤを問わずに浅草を拠点とするヤクザ組織の親睦団体「浅草親友会」を立ち上げました(*1)。
浅草親友会には「足尾組」「丁字家宗家」「丁字家芝山」、出羽家一家、「新門本家」「義人党」「高橋組」「姉ヶ崎」「姉ヶ崎五十嵐」「姉ヶ崎甲州家」「家根弥一家」「飯島山春」「飯島倉持」「日本国粋会・入村」「日本国粋会・田甫一家」などの勢力が加盟していました(*5)。
橋本時雄は「競輪の橋本」と呼ばれるほど、競輪業界に深く関わっていました(*6)。実際、橋本時雄は競輪において「八百長レースの元締め」のような役割を果たしていました(*6)。
当時、北は函館競輪場から南は九州長崎競輪場に至る全国各地の競輪場で「橋本の若者」(橋本時雄の配下)が数百人規模で活動していました(*7)。
<引用・参考文献>
*1 『実話時代』2016年7月号, p31-33
*2 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p174-175
*3 『実話時代』2015年7月号, p37
*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p157
*5 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p321
*6 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫), p231-232
*7 『公安大要覧』,p230
コメント
コメント一覧 (2件)
出羽家は私の父である昇の父、私の父は養子で山本に育てられ、浅草で今で言うフリーパスで遊べたそうです、祖父はテキヤの総元締めで、亡くなった時は鶯谷から浅草までお悔やみの行列ができたと、父から聞いていました、目黒にある出羽家のお墓は、叔母である秀子が亡くなってから、入る人が無く墓石は整理したようで、今は空いています、
清水ヨウコ様
コメントありがとうございます!
参考にさせて頂きます。