博徒組織が開帳していた賭場で、提供されていたのは賭博だけではありませんでした。飲食も振舞われていました。常設的な場所で定期的な日に開帳されていた賭場は「常盆」と呼ばれました(*1)。
常盆では、業者が出入りし飲食を売っていました(*2)。賭博の最中という性格上、つまみやすい握り飯や寿司が好まれたようです(*2)。鉄火巻きの語源は、「鉄火場」(賭場)で食べやすいものというところからきている説があります(*2)。
また「替え銭屋」という金融業者も賭場に出入りしていました(*3)。博徒組織に任されて賭場の両替や金貸しを担う業者が替え銭屋でした(*3)。
替え銭とは「賭場で貸す金」の別名でした(*4)。昔の賭場では「コマ(駒)札」が賭け金として用いられていました(*5)。客は賭場に入る時、「手持ちの現金」を「コマ札」に取り替えました(*5)。賭場を出る時に、客は「手持ちのコマ札」を「現金」に取り替えました(*5)。このコマ札と現金の取り替えから、替え銭という言葉が生まれ、「賭場で貸す金」という意味を持つようになったと思われています(*4)。
「賭場で貸す金」を表す言葉としては他に「回銭」がありました(*4)。回銭の利息は、一晩で2~3割でした(*4)。また回銭の利息は一晩で5割を超える場合もありました(*4)。賭場には「回銭屋」という金貸し業者がいました(*4) (*6)。
回銭屋の登場前は「貸元」が客に金を貸していました(*6)。貸元は総長(博徒組織の最高位)から縄張りの一部を預かり、その縄張り内における賭博事業を仕切りました(*7)。貸元は賭博事業における収益の一部を総長に上納しました(*7)。
1945年以前の賭場では、貸元は客に「持ってきた金の30%」を上限に貸しました(*6)。
別の資料では「賭場における借金の利息」は「10日で1割」(通称:といち)だったと述べられていました(*8)。
<引用・参考文献>
*1 『ヤクザ大辞典 親分への道』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p89
*2 『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(鈴木智彦、2011年、文春新書), p207-208
*3 『ヤクザ大辞典 親分への道』, p95
*4 『やくざ事典』(井出英雅、1971年、雄山閣出版),p236-237
*5 『やくざ事典』,p210
*6 『やくざ事典』,p217-218
*7 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p193-194
*8 『博徒・森川鹿次の生涯: 瀬戸内遊俠伝』(正延哲士、2000年、洋泉社),p25
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