ヤクザ組織と港湾労働の関係は歴史的に深かったです。日本の港が近代化されてから1960年代まで、港湾現場においてヤクザ組織が労働力供給の役割を果たしてきました。船内荷役などの港湾労働の業務量は常に一定ではなく、時期や天候によって変動しました(*1)。荷役会社は、労働者を常時雇うより、日雇い労働者を活用するほうを選びました(*1)。日雇い労働者の確保・管理・派遣を担ったのがヤクザ組織でした(*1)。ヤクザ組織の手配師は関係先の安宿に日雇い労働者を住まわせ、また安宿やその付近に賭場を設け、身体的及び経済的に日雇い労働者を管理しました(*1)。
太平洋戦争後、神戸港では山口組三代目組長田岡一雄、横浜港では笹田照一、鶴岡政治郎、藤木幸太郎らが影響力を及ぼしていました(*2)。笹田照一は「双愛会の始祖」と位置付けられる人物(*3)、鶴岡政治郎と藤木幸太郎もヤクザ組織を持っていました(*3)。1966年6月港湾運送事業法の改正案成立(*4)、1966年7月港湾労働法施行(*5)、1968年海運大手のコンテナ船就航(*6)により、港湾労働におけるヤクザ組織の活動領域は縮小しました。港湾運送事業法の改正案では、元請けは港湾労働を下請けに流すのではなく、直営することが求められました(*4)。港湾労働法では、日雇い労働者は職業安定所に登録されることになりました(*5)。港湾労働の内容が元請けや公的機関に把握されることなり、ヤクザ組織が関与しにくくなったと考えられます。コンテナの登場は、港湾現場の人的資源の縮小をもたらし(*6)、ヤクザ組織が担っていた「労働力供給」の需要自体が減りました。
住吉一家三代目総長・阿部重作(在任期間:1948~1962年)は若い頃横浜で港湾労働をしていました(*7)。後に東京に出た阿部重作は、港湾労働関係のヤクザ組織(親分:高木康太)に入りました(*7)。高木康太は大正末から昭和にかけて(1920年代以降)東京湾の埋め立て護岸工事に関わり、1937年和泉海運の下請け業者になりました(*7)。高木康太は労働力供給、港湾荷役の事業を展開しました(*8)。高木康太は博徒ではないものの、博徒組織・住吉一家の客分という地位にいました(*7)。東京湾の港湾労働もヤクザ組織と関係が深かったことが推察されます。太平洋戦争後、高木康太はヤクザ業界から引退、芝浦海陸作業という組織を設立し実業家に転身しました(*7) (*8)。阿部重作は高木康太の組織を引き継ぎ、後に住吉一家のトップにも就きました(*7)。
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はじめてのヤクザ組織解剖学2: 直参制度、ミカジメ料とは何か
<引用・参考文献>
*1 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p274-277
*2 『血と抗争 山口組三代目』, p89
*3 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p110-111
*4 『血と抗争 山口組三代目』, p344
*5 『血と抗争 山口組三代目』, p332
*6 『血と抗争 山口組三代目』, p351-352
*7 『実話時代』2018年9月号, p44-45
*8 『実話時代』2016年8月号, p38
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