瀬戸一家

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 「山口組」2次団体の「瀬戸一家」は、江戸時代末期に生まれた博徒組織を源流としました(*1)。瀬戸一家は1991年山口組の傘下に入りました(*2)。

 過去、瀬戸一家の縄張りは日本最大といわれました(*2)。しかし瀬戸一家の縄張りは、賭博事業の収益があまり見込めない土地が多かった為、瀬戸一家の収益は高くなかったです(*3)。そのため瀬戸一家内では内部抗争がよく起きました(*3)。

 瀬戸一家二代目総裁の井上愛之助(もしくは金之助)体制時(1884年開始し、1904~1907年の間まで続きました)(*4) (*5)、瀬戸一家内のグループとして「品野派」が結成されました(*5)。品野派の初代(結成者)は小林常八(貸元級の者)でした(*5)。小林常八は「井上愛之助の舎弟」でした(*5)。品野派は品野町、東濃の一部を縄張りとしました(*5)。品野派はたびたび、瀬戸一家の宗家(本家)側と対立し、抗争をしました(*3)。

 また瀬戸一家内には「多治見派」もありました(*6)。吉沢熊吉(貸元級の者)が多治見派を結成しました(*6)。吉沢熊吉は「井上愛之助の子分」でした(*6)。多治見派は多治見を拠点にしていました(*6)。

 東海地区では博徒組織の最高位は「総裁」でした(*7)。ちなみに関東では博徒組織の最高位は「総長」でした(*7)。

 さらに瀬戸一家内には「加納派」というグループもありました(*8)。高木末吉(貸元級の者)が「加納派」を結成しました(*8)。高木末吉の兄貴分が小森守一でした(*8)。加納派は岐阜県の加納町、岐阜市の三番町を縄張りとしていました(*8)。

 1955年頃、瀬戸一家では六代目総裁・川島五郎が、一家内の縄張りを再編しました(*9)。

 瀬戸一家は岐阜県中津川市に縄張りを持っていました(*10)。中津川市においては博徒組織「信州玉木一家」も縄張りを持っていました(*10)。信州玉木一家は信州大桑村を中心に縄張りを持っていました(*10)。中津川市では2つの博徒組織が縄張りを持っていたのです。

中津川市は「出会費場所」でした(*10)。博徒業界において費場所とは、縄張りの別名でした(*11)。

 藤田五郎によれば、出会費場所とは「一町、一村、一字に於て、一家と他家との費場の競合する状態」を指しました(*10)。同一地域において複数の博徒組織が縄張りを持つ状態が、出会費場所だったのです。

 出会費場所の形態としては「日分け」「処分」「寺分」などがありました(*10)。「処分」形態の出会費場所では、同一地域内で2つの組織の縄張りは地理的に分かれているものの、隣接していました(*10)。中津川市の出会費場所の形態は「処分」でした(*10)。

 大正時代(1912~1926年)と昭和時代(1926~1989年)初期、瀬戸一家は中津川市の自身の縄張りを信州玉木一家に貸しました(*10)。中津川市において信州玉木一家が自身の縄張りと瀬戸一家側の縄張りを一括で管理していたのです。

 その後、信州玉木一家は戦前(1941年以前)からテキヤ組織「中京熊屋一家」の田中亀吉に中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を貸しました(*10)。田中亀吉が中津川市の縄張りを借りることに関しては、瀬戸一家側も承認しました(*10)。

 「中津川市における瀬戸一家の縄張り」は、まず信州玉木一家に貸された後、田中亀吉に転貸されたのです。

 田中亀吉は太平洋戦争終了(1945年)以降、中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を林純平に貸しました(*10)。林純平は元々、中津川市を拠点に活動する愚連隊の首領でした(*10)。当時、田中亀吉は恵那郡大井町(現在の恵那市)に住んでいました(*10)。

 1955~1956年頃に林純平は、博徒組織「信州斎藤一家」の二代目総長・滝田健の子分になり、「林組」(信州斎藤一家の2次団体)を立ち上げました(*10)。

 この時点で「中津川市における瀬戸一家の縄張り」は、信州玉木一家に貸された後、田中亀吉に転貸され、さらにそこから林純平にも転貸されたのです。

 1960年より少し前に、田中亀吉は中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を瀬戸一家に「返還」することにしました(*10)。当時の信州玉木一家の活動実態が不明ですが、返還の名の下、瀬戸一家が「中津川市における信州玉木一家の縄張り」を回収しようとしていたことが窺い知れます。

 その後、瀬戸一家は、転貸先の林純平に対し、中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を瀬戸一家に渡すように伝えました(*10)。しかし林純平は縄張りを渡すことを拒否しました(*10)。出会費場所(瀬戸一家+信州玉木一家)になる以前の中津川市では、信州玉木一家が縄張りを持っていたとする資料(1894年8月5日「博徒人名簿」)がありました(*10)。林純平は「中津川市は元々、信州玉木一家の縄張りである。瀬戸一家が侵略してきた」という主張をしました(*10)。1960年田中亀吉は病死しました(*10)。

 当時、林組の首領・林純平は中津川市茶屋坂に自宅を持っていました(*12)。また林純平は中津川市栄町に店を持っていました(*12)。

 瀬戸一家の幹部(A氏)が中津川市栄町に店を2軒出したことで、瀬戸一家と林組(信州斎藤一家の2次団体)の間で対立が深刻化していきました(*12)。1961年9月7日、林組側が瀬戸一家の幹部(A氏)を中津川市内にて射殺しました(*12)。幹部射殺を受けて瀬戸一家は400人以上を恵那に集結させました(*13)。当時の瀬戸一家は数百人の動員力があったことが分かります。

 林組の上部団体である信州斎藤一家は「日本国粋会」に加盟していました(*13)。「生井一家」(日本国粋会加盟)、東京の「義人党」、信州斎藤一家、先述の中京熊屋一家が林組を支援する為、応援部隊を中津川市に派遣しました(*12) (*14)。また名古屋の竹内淳人の勢力も林組支援の為、中津川市に入りました(*12) (*14)。応援部隊により、林組側の勢力は約200人となりました(*15)。

 動員数は瀬戸一家側400人以上で、一方の林組側は約200人であったことから、数百人規模での抗争になる可能性がありました。

 しかし瀬戸一家側と林組側は和解し、数百人規模での抗争には至りませんでした(*16)。

 上記の出来事は「中津川事件」と呼ばれました(*16)。

 中津川事件(1961年)の時、瀬戸一家の総裁(トップ職)は小林金次(八代目)でした(*17)。先代(七代目)の総裁は田中治六でした(*10)。七代目総裁・田中治六は1960年3月21日、病死しました(*10)。

 小林金次は元々、田中治六の「総領子分」でした(*18)。総領子分とは「全子分の中の筆頭」(長男格)という意味であり、いわゆる「若頭」に該当しました(*19)。後に小林金次は瀬戸一家から、博徒組織「形ノ原一家」(五代目総裁・清水橋一郎)に養子分として預けられました(*18)。小林金次は瀬戸一家から形ノ原一家に移籍したのでした。形ノ原一家の縄張りは三谷町、蒲那町、形ノ原町、塩津町、西蒲町などでした(*18)。小林金次は形ノ原一家の六代目を継承しました(*18)。

 瀬戸一家七代目総裁・田中治六の病死(1960年3月21日)後、引退していた川島五郎(六代目総裁)は、小林金次(当時、形ノ原一家六代目総裁)を呼び寄せ、瀬戸一家の八代目を継がせました(*10)。小林金次は瀬戸一家に出戻ったのでした。

 当時、川島五郎は引退していたものの、瀬戸一家に関する人事権を持っていたことが窺えます。川島五郎は1961年1月14日、病死しました(*10)。

 先述したように、中津川事件の発端となったのは「林組側が瀬戸一家の幹部(A氏)を中津川市内にて射殺した事件」で、その射殺事件は1961年9月7日に起きました。中津川事件の時点では、先代(七代目)及び先々代(六代目)は亡くなっていたのでした。

 中津川事件(1961年)の時、瀬戸一家内の「最高実力者」は、総裁(八代目小林金次)ではなく、橋本寅次郎でした(*17)。

 橋本寅次郎は1902年(明治三十五年)6月20日、三重県の四日市で生まれました(*20)。橋本寅次郎の妻の父は、博徒組織「平野屋一家」(平野家一家)の五代目総裁・今井安吉でした(*20)。ゆえに橋本寅次郎は「平野屋一家の関係者」と見られていました(*20)。

 1944年12月3日以降、アメリカ合衆国軍は名古屋市を空襲しました(*21)。その空襲により、同年12月名古屋市内の橋本寅次郎の家は燃やされてしまいました(*21)。橋本寅次郎の家族は、瀬戸市に引っ越しました(*21)。橋本寅次郎は瀬戸市に着くと、瀬戸一家総裁・川島五郎(六代目)に挨拶に行きました(*21)。川島五郎は橋本寅次郎を快く迎え入れ、また後に橋本寅次郎に豊田に行くように命じました(*21)。橋本寅次郎は、1945年春、豊田に移り住みました(*21)。そこから長年、橋本寅次郎は豊田に住み続けました(*21)。

 この時ぐらいから橋本寅次郎は瀬戸一家において「世話内の者」となりました(*21)。瀬戸一家六代目総裁・川島五郎は橋本寅次郎とは親子の盃を交わしませんでした(*21)。橋本寅次郎はその後も、瀬戸一家では「世話内の者」で居続けました (*22)。世話内の者は、「親分-子分の関係」もしくは「兄-舎弟の関係」(擬制的親族関係)からは除かれているものの、組織内の一員でした。世話内の者とは、「客分」に近かったのかもしれません。猪野健治によれば客分とは「系譜は違うが一家に迎え上位者としてあつかう稼業歴(または渡世歴)のある人物」のことでした(*23)。

 瀬戸一家六代目総裁・川島五郎の総領子分(全子分の中の筆頭)は、土川豊でした(*21)。総領子分の土川豊は橋本寅次郎を「兄弟分」として扱いました(*21)。

 橋本寅次郎が瀬戸一家内で丁重に扱われた理由としては、橋本寅次郎の実力に加えて、義父が今井安吉(平野屋一家五代目総裁)だったことが考えられます。

 瀬戸一家七代目総裁・田中治六の体制時、橋本寅次郎は「副総裁」を務めました(*22)。先述したように、その田中治六は1960年3月21日に病死、引退していた川島五郎(六代目総裁)も1961年1月14日、病死しました。

 また先述したように、当時の瀬戸一家総裁は、出戻りの小林金次(八代目)でした。川島五郎の死去後、橋本寅次郎が瀬戸一家内の「最高実力者」になったと考えられます。

 瀬戸一家六代目総裁・川島五郎の後継(七代目)指名時、最初は土川豊(総領子分)が指名されました(*18)。しかし土川豊は、長男が堅気であるという理由で、断りました(*18)。

 次に指名されたのが橋本寅次郎でした(*18)。しかし橋本寅次郎は世話内の者であり、「瀬戸一家の擬制的親族」ではなかった為、橋本寅次郎の七代目継承は実現しませんでした(*18)。ゆえに「瀬戸一家六代目総裁・川島五郎が橋本寅次郎を後継指名した」というのは疑わしいのかもしれません。

 瀬戸一家では「瀬戸親睦会」が1962年1月結成されました(*22)。瀬戸親睦会では橋本寅次郎が会長、小林金次(瀬戸一家九代目総裁)が副会長に就任しました(*22)。瀬戸親睦会では職位の面で橋本寅次郎は小林金次より上にいました。

 1980年時の瀬戸一家内では、瀬戸市の「俠神会」、名古屋市の「真誠会」、蒲郡市の「三州会」、岐阜県の「東濃会」の2次団体が中核を担っていました(*1)。瀬戸市と名古屋市は愛知県の尾張地方、蒲郡市は愛知県の東三河地方に位置しています。瀬戸一家が広域に勢力を張っていたことが分かります。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p134-135

*2 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p38

*3 『実録 東海の親分衆』(藤田五郎、1979年、青樹社),p218,221-222

*4 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫),p54

*5 『実録 東海の親分衆』,p152-153

*6 『実録 東海の親分衆』,p155-156

*7 『実録 東海の親分衆』,p270-271

*8 『実録 東海の親分衆』,p107

*9 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社),p14

*10 『実録 乱世喧嘩状』,p19-20,29-30,36-37

*11 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p63

*12 『実録 乱世喧嘩状』,p43-49

*13 『実録 乱世喧嘩状』,p55-56

*14 『実録 乱世喧嘩状』,p58-60,66-69

*15 『実録 乱世喧嘩状』,p96

*16 『実録 乱世喧嘩状』,p97-103

*17 『実録 乱世喧嘩状』,p86

*18 『実録 乱世喧嘩状』,p15-17

*19 『現代ヤクザ大事典』,p20

*20 『実録 東海の親分衆』,p104-105

*21 『実録 乱世喧嘩状』,p12-13

*22 『実録 乱世喧嘩状』,p50-52

*23 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫),p221

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