山口組2次団体・柳川組(山口組の活動期間:1959~1969年)(*1)は、1961~1964年全国各地に進出(*2)、山口組の広域化に大きな役割を果たしました。柳川組の進出方法としては、地元ヤクザ組織との抗争に加えて、地元ヤクザ組織の一部勢力の吸収等がありました(*2)。柳川組は柳川次郎によって結成された組織で、元々山口組には属していませんでした(*1)。
柳川次郎は1955年西宮の諏訪一家に入りました(*3)。柳川次郎は大阪に拠点を移し、諏訪一家2次団体・藤本組の客分になりました(*3)。藤本組の客分時代に、柳川次郎は自らのグループを率いるようになりました(*3)。1957年柳川次郎は恐喝容疑で逮捕され、保釈されたものの、諏訪一家から追放処分を受けました(*1)。同年暮れ柳川次郎は大阪の酒梅組2次団体・梅野組の客分になり、大阪市西成に進出していきました(*3)。
1958年2月柳川グループは、西成飛田の売春ビジネスを握っていた酒梅組2次団体・鬼頭組と抗争しました(*1)。酒梅組2次団体同士の抗争でした。梅野組の柳川グループの有利な形で抗争は終わりました(*1)。以降柳川グループは勢いを増し、「柳川組」と名乗るようになりました(*1)。1959年2月柳川組は愚連隊・交星会と抗争に至りました(*1)。山口組若頭の地道行雄は柳川組の好戦性に目を付け、1959年10月自身が率いる地道組の傘下に柳川組を収めました(*1)。柳川組は「山口組3次団体」になりました。1959年10月時点で柳川組が酒梅組2次団体・梅野組に属していたのか、梅野組から脱退して独立団体であったのかは分かりません。
山口組3次団体・柳川組は1960年1月西谷会、1960年5月砂子川組2次団体・松尾組と抗争に至り好戦性を示しました(*1)。1960年8月山口組は大阪の愚連隊・明友会と抗争し、柳川組も参戦しました(*1)。抗争による山口組の逮捕者は102人で、そのうち72人が起訴されました(*1)。被告人72人の42人が柳川組組員でした(*1)。被告人の58%が柳川組組員だったことから、柳川組が多くの人員を抗争に派遣したことが分かります。1960年10月、明友会との抗争の功績により、柳川組は山口組2次団体に昇格しました(*1)。
その後全国進出した柳川組は1967年時、傘下団体73団体、構成員1,690人の勢力を持つまでに拡大しました(*1)。柳川組内では「上納金制度」がありませんでした(*4)。柳川組の下部団体にとって、上納金の支払い義務がないことは、経済的に楽だったと考えられます。
1964年からの警察庁の取締り強化(通称:頂上作戦)では、柳川組は2次団体でありながらも、「十大暴力団」(山口組も含まれていた)に指定されました(*1)。1964年柳川組二代目組長に谷川康太郎が就任しました(*1)。1969年大阪府警の厳しい取締りにより、柳川組は解散に至りました(*1)。当時谷川康太郎は恐喝容疑で刑が確定され、懲役生活に入っていました(*1)。前トップの柳川次郎も同様に、懲役生活に入っていました(*1)。山口組は「柳川組が勝手に解散した」と解釈し、柳川次郎と谷川康太郎を絶縁処分にしました(*1)。
旧柳川組勢力は山口組内に残ったものの、一会、金田組、藤原会、章友会の4組織に分割されました(*3)。4組織とも2次団体として昇格しました(*3)。4分割したことから、当時の山口組執行部が「柳川組の規模」が大き過ぎると認識していたと考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p128-135
*2 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p114-126
*3 『実話時代』2017年1月号, p26-31
*4 『やくざと日本人』(猪野健治、2011年、ちくま文庫),p301
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