極東会の源流である「関口一門」(関口愛治系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)が太平洋戦争後(1945年以降)、拠点とした池袋から新宿に進出します(*1)。進出要因の1つとして、新宿の露店市場において多大な影響力を持っていた関東尾津組組長の尾津喜之助の「許可」がありました(*1)。
尾津喜之助は、戦前新宿を仕切っていたテキヤ組織「飯島一家」の小倉米三郎の子分になり、1926年飯島一家内で関東尾津組を結成します(*2)。いわゆる尾津喜之助の「一家名乗り」です。関東尾津組はその後、勢力を伸張していきます(*2)。1930年11月山形県で関東尾津組の元構成員・高山春吉の殺害事件が起きます(*3)。高山春吉は粗暴な行動を関東尾津組内から問題視されていました(*3)。同年8月、身の安全を考えた高山春吉は東京から姿を消しました(*3)。
関東尾津組は高山春吉の行方を追いました(*3)。高山春吉の居所をつかんだのが関口一門の関係者でした(*3)。高山春吉が山形県山形市七日町のテキヤ組織の者の自宅に身を寄せていることが分かったのです(*3)。
全国の祭りや縁日(高市=タカマチ)を回るテキヤの稼業上(*4)、テキヤ組織は全国各地に情報網を張り巡らしており、人を探すのには長けていたと考えられます。報告を受けた関口一門の首領の関口愛治は尾津喜之助に伝えました(*3)。その後、関口愛治は関口一門の構成員1人、関東尾津組の構成員1人、その他もう1人を連れて、計4人で山形県に向かいます(*3)。
11月2日、高山春吉の殺害を実行するのです(*3)。高山春吉殺害事件は、関東尾津組が関口一門の「助け」を借りた格好です。
高山春吉の殺害事件で関口愛治は殺人教唆の罪で1939年まで服役しました(*1)。尾津喜之助も殺人教唆の罪で1941年まで服役することになりました(*2)。戦後、関東尾津組は敗戦日の5日後の8月20日から新宿で露店市場(新宿マーケット)を開きました(*5)。新宿マーケットは「闇市」と位置づけられています(*6)。1947年尾津喜之助は脅迫の容疑で逮捕されました(*7)。トップの逮捕を機に関東尾津組は解散しました(*7)。
<引用・参考文献>
*1 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p50-51
*2 『歌舞伎町・ヤバさの真相』(溝口敦、2012年、文春新書), p50-53
*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p43-48
*4 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p155
*5 『歌舞伎町・ヤバさの真相』, p54-58
*6 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書), p100
*7 『歌舞伎町・ヤバさの真相』, p58
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