稲川会に「稲川一家」という2次団体がありました(*1)。稲川一家の結成者は、稲川裕紘でした(*1)。稲川裕紘は、稲川会創設者・稲川聖城(稲川会会長在位期間:1949~1986年)の実子でした(*1)。稲川裕紘は1940年に生まれ、横須賀一家の部屋住みからヤクザとしてのキャリアを開始し、1974年9月熱海市を拠点とする山崎屋一家を継承しました(*1)。山崎屋一家の先代は長谷川春治で、先々代は稲川聖城でした(*2)。
山崎屋一家の先代・長谷川春治は、1974年11月稲川会2次団体・碑文谷一家を継承しました(*2)。稲川裕紘が山崎屋一家を継承した2カ月後、長谷川春治は碑文谷一家トップ(九代目総長)に就任したことから、長谷川春治が「横滑り」する形で別の2次団体トップに異動したことが分かります。
碑文谷一家は江戸時代に誕生した老舗博徒組織です(*2) (*3)。碑文谷一家は大森、目黒、品川、碑文谷を縄張りとし、長らく独立組織として活動していましたが、1962年鶴政会(当時の稲川会の名前)の傘下に入りました(*2)。1962年以降、鶴政会の西山実が八代目総長として碑文谷一家を率いました(*2)。1965年2月17日、警視庁は稲川聖城を賭博開帳図利容疑で指名手配しました(*4)。住吉一家前総長(阿部重作)の御祝儀目的で、1964年3月29日箱根の温泉旅館で賭博を稲川聖城が住吉一家総長・磧上義光とともに開催した容疑でした(*4)。稲川聖城は1965年2月27日出頭し、3年の懲役刑に服しました(*4)。碑文谷一家の西山実も同様の件で逮捕されましたが、保釈中に韓国に逃亡しました(*3)。韓国逃亡に稲川聖城は怒りを示したのか、1967年西山実を破門にしました(*3)。
碑文谷一家は1967~1974年の7年間トップを不在としました。稲川聖城の出所は1972年1月でした(*4)。碑文谷一家トップ不在期間(1967~1974年)が上部団体・稲川会のトップ社会不在期間(1965~1972年)と被っていることから、碑文谷一家の跡目決めは稲川聖城抜きでは行えなかったことが推測されます。
長谷川春治の跡を継いで1974年9月に山崎屋一家を継承した稲川裕紘は、横浜市を拠点に活動していた山田屋一家の縄張りを継承する形で、1980年稲川一家を結成しました(*1)。同年、稲川会では石井隆匡理事長が刑に服する為理事長を辞任、趙春樹が新たに理事長に就きました(*4)。理事長交代に伴い稲川会の執行部体制も再編され、稲川裕紘は副理事長に就きました(*4)。稲川裕紘が稲川一家を結成した背景には、稲川会の執行部体制の再編があったことが考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『実話時代』2019年5月号, p17
*2 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p180-183
*3 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p67
*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p35-38
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