福岡市に進出した道仁会3次団体

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 「道仁会」は古賀磯次により1971年結成されました(*1)。古賀磯次は1965年福岡県久留米市で「古賀一家」を結成していました(*2)。初期の道仁会は、筑後地方(福岡県南部地域)の複数組織によって構成された連合型の組織でした(*3)。後に道仁会は組織形態を「1次団体が各2次団体を傘下に置く」という垂直型に改めました(*3)。

 1979年11月時点で資料から確認できる「道仁会2次団体」は古賀一家、「池田組」(池田博度伺組長)、「江崎組」(江崎彰組長)、「荒巻組」(荒巻三徳)、「池田繁組」(池田繁喜組長)の5つでした(*4)。

 1979年11月時点の道仁会では古賀磯次が会長を務めていました(*4)。また池田博度伺(池田組)、江崎彰(江崎組)、荒巻三徳(荒巻組)の3人が副会長を務め、池田繁喜(池田繁組)が幹事長を務めていました(*4)。

 1979年11月時点で松尾誠次郎は道仁会の幹事を務める一方、自身の組織として「松尾組」(道仁会3次団体)を率いていました(*4)。松尾組の上部団体は、古賀一家(道仁会2次団体)でした(*4)。

 1980年代道仁会は福岡市に進出しました(*5)。1986年時、道仁会3次団体「大中組」は福岡市の一角を縄張りにしていました(*5)。大中組の上部団体は、先述の松尾組(当時はおそらく道仁会2次団体)でした(*5)。大中組の下部団体に「誠心会」(道仁会4次団体)がありました(*5)。誠心会は福岡市を拠点に活動していました(*5)。

 1986年12月16日福岡市内で「伊豆組」(山口組2次団体)構成員らが、誠心会構成員らを襲撃しました(*5)。この事件が発端となり、道仁会は山口組と抗争をしました(*5)。

 大中義久(大中組の首領)は後に松尾組の二代目組長に就任、2006年5月には道仁会三代目会長(在任期間:2006~2007年)に就任しました(*1) (*6)。しかし2007年8月18日福岡市内にて、大中義久は射殺されました(*6)。当時、道仁会は「九州誠道会」(道仁会の脱退勢力)と抗争中でした(*6)。

 ちなみに先述の松尾誠次は道仁会二代目会長(在任期間:1992~2006年)を務めました(*1)。

<引用・参考文献>

*1 『別冊  実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p73

*2 『新・ヤクザという生き方』「九州の雄 道仁会・三つの戦い!」(安田雅企、1998年、宝島社文庫), p135

*3 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p188

*4 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p558

*5 『新・ヤクザという生き方』「九州の雄 道仁会・三つの戦い!」, p87-88

*6 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫), p290-292

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