幸平一家は土支田一家、滝野川一家、二本木小川一家とともに1959年「友愛会」という連合型組織を結成しました(*1) (*2)。四団体とも江戸から明治の間に誕生した博徒組織でした (*2)。1965年友愛会は解散しました(*3)。前年1964年警察庁によるヤクザ組織に対する取締り強化(通称:頂上作戦)の開始(*4)が、友愛会解散の背景にあると考えられます。
1965年解散時の友愛会の組員数は634人でした(*3)。解散時、幸平一家、土支田一家、滝野川一家の3団体が友愛会を構成していました(*3)。二本木小川一家は1965年の前に友愛会を脱退したか、組織自体を解散したか、別の組織に吸収されたと考えられます。
1965年時点において、幸平一家の勢力は634人未満だったことが窺えます。一方、2000年代において幸平一家は約800人の組員を抱えていたと言われています(*5)。1965年時点よりも、2000年代の方が幸平一家の勢力が多いことが分かります。時代とともに幸平一家の組員が増加したことが推測されます。
<引用・参考文献>
*1 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p60
*2 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p44-45
*3 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p191
*4 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p168
*5 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫), p245
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