交和会

  • URLをコピーしました!

 1969年から1994年にかけて「交和会」(1次団体)が活動していました(*1)。交和会は、関東博徒系1次団体の親睦団体「関東二十日会」に、加盟していました(*2)。交和会の前身は「北星会」(活動期間:1962~1968年)でした(*1)。

 1964年から警察庁はヤクザ組織に対する大規模な取締り(通称「第一次頂上作戦」)を実施、結果、北星会は1968年解散しました(*3) (*1)。

 翌1969年、旧北星会勢力は、交和会を結成しました(*1)。

 1994年交和会は「興和一家」に改称し、「稲川会」(1次団体)の傘下に入りました(*1)。

 1962年「岡村文化部」「上州共和一家」などが集い、先述の北星会を立ち上げました(*1)。上州共和一家は博徒系ヤクザ組織で、群馬県高崎を拠点にしていました(*1)。

 1962年北星会結成、1969年交和会結成において、岡村吾一が主導的な役割を果たしました(*1)。岡村吾一は1907年埼玉県行田市に生まれ、16~17歳の頃上京、1932年右翼団体「大化会」に入りました(*1)。岡村吾一は大化会高崎支部長代理をつとめた際、上州共和一家の結成を手伝いました(*1)。高崎近隣における11の博徒組織が結集し、上州共和一家は大正時代(1912~1926年)に結成されました(*1) (*4)。武田愛之助が上州共和一家初代総長に就きました(*1)。武田愛之助は岡村吾一の兄貴分でした(*1)。北星会の構成団体となる上州共和一家は、岡村吾一とつながりがあったのでした。

 明治時代(1868~1912年)の高崎の博徒業界では、博徒組織「福島一家」が勢力を張っていました(*5)。乗附条七が福島一家を結成しました(*5)。

 岡村吾一はその後東京に戻り、右翼の大物・児玉誉士夫と知り合い、児玉の組織「児玉機関」で働きました(*1)。太平洋戦争終了(1945年)、岡村吾一は芸能界に軸足を置き、先述の岡村文化部を設立しました(*1)。岡村文化部の事務所は、銀座にありました(*1)。岡村文化部は日劇、松竹歌劇団、宝塚などの団体に影響力を持っていました(*1)。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p38-39

*2 『実話時代』2017年9月号, p22-24

*3 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』, p26-27

*4 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p76-77

*5 『親分衆(関東編)』(藤田五郎、1989年、富士出版),p134-135

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次