山口組初代組長・山口春吉は、1915年(大正四年)頃、「山口組」を結成しました(*1)。結成時の山口組は、港湾荷役の人足供給業を手掛けていました(*1)。
昔、港湾荷労働者は「仲仕(なかし)」と呼ばれていました(*2)。
当時の港湾荷役では艀(ハシケ)と呼ばれる自走できない特殊な港運船が重要な役割を果たしていました (*3)。昔の港は水深がなく、大きな貨物船は港に直接接岸できませんでした(*3)。「沖にある貨物船」と「港」の間をつないだのがハシケでした(*3)。
仲仕には「沿岸仲仕」と「沖仲仕」の2つがありました(*2)。沿岸仲仕は「沿岸からハシケに」荷を積み、沖仲仕は「ハシケから貨物船に」荷を積み込みました(*2)。「沿岸」→「ハシケ」は沿岸仲仕が荷の移動を担い、「ハシケ」→「貨物船」は沖仲仕が荷の移動を担ったのでした。
「住吉一家」三代目総長・阿部重作(在任期間:1948~1962年)は、若い時に横浜で、沖仲仕をしていました(*4)。現場では「棒心」という役の者が仲仕をまとめていました(*2)。
先述したように結成時の山口組は、港湾荷役の人足供給業を手掛けていました。具体的には、結成時の山口組は「下宿屋」(労働部屋)事業をしていました。
港湾荷役業界では口入れ屋(手配師)が男達に労働部屋を紹介し、そこで男達は仲仕となって働きました(*5)。労働部屋では24~25人の仲仕が、14~15畳の部屋に住んでいました(*5)。労働部屋は「下宿屋」と呼ばれていました(*5)。沖仲仕の親方が「下宿屋の主人」を務めていました(*5)。
「下宿屋の主人」は、下宿代等を引いた後に、4日と19日に労賃を仲仕に払いました(*5)。この場合の下宿代は「25銭」で固定されていました(*5)。一方、仲仕の日給は45銭~1円20銭もしくは1円30銭でした(*5)。下宿屋では毎晩のように賭場が開帳されていました(*5)。
結成時の山口組組長・山口春吉は「下宿屋の主人」を務めていました(*5)。下宿屋(労働部屋)事業が、結成時山口組の人足供給業の実態だったのです。
<引用・参考文献>
*1 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p8-9
*2 『FOR BEGINNERS シリーズ ヤクザ』(朝倉喬司、1990年、現代書館), p107-108
*3 横浜市サイト「コンテナ専用はしけ輸送の詳細」
https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/yokohamako/kkihon/kankyo/hashike.html
*4 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p95-99
*5 『昭和の俠客:鬼頭良之助と山口組二代目』(正延哲士、2002年、ちくま文庫), p16-17
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