テキヤ組織「研谷」(極東会2次団体)(*1)は、戦国大名・武田信玄の孫といわれる武田甚右衛門信輔を「初代」に位置付けていました(*2)。「研谷」は厳密にいえば、組織名ではなく、稼業名(屋号)でした(*3)。
研谷初代の武田甚右衛門信輔は甲州から東北に移り、以降の研谷は六代目まで宮城県石巻を拠点に活動したといわれています(*2)。その後七代目・武田彦八忠行の時代、研谷は加賀に移ったといわれています(*2)。
十代目硎谷勘助から十三代目硎谷與三郎の時代、研谷の継承者は硎谷性を名乗りました(*2)。この時代の稼業名は「硎谷」でした(*2)。当時、硎谷は硎師(刃物や鏡を研ぐ人)を主な稼業にしていたといわれています(*2)。
先述したように、研谷(硎谷)とは稼業名であり、十三代目以前の研谷(硎谷)がどの程度、組織化していたかどうか不明です。
1935年頃から硎谷の山田正信は、山形県庄内地域の酒田市に拠点を置きました (*2)。1939年、山田正信は硎谷の十四代目を継ぎました(*2)。十四代目以降(1939年以降)、硎谷は稼業名を「研谷」に改称しました(*2)。また研谷は酒田市を本拠地としました(*2)。
山田正信は、関口愛治(関口一門の宗家初代)の舎弟でした(*2)。1961年極東一門(関口一門+桜井一門+飴徳一門)を中心に結成された「極東愛桜連合会」(*4)に、研谷も加わりました(*2)。おそらくこの頃(1961年頃)の研谷は組織化しており、「研谷」の名は「稼業名」ではなく「組織名」になっていたと考えられます。
山田正信は研谷のトップでありながら、1951~1963年の間、酒田市会議員も兼任しました(*2)。ヤクザ組織の親分が政治家を兼任していたのでした。
1965年、村上浩三郎が研谷十五代目を継ぎました(*2)。後に村上浩三郎は極東会(1990年~現在)の最高顧問に就任しました(*1)。
1964年以降、警察庁はヤクザ組織に対し取締り強化作戦(通称:第一次頂上作戦)を実施しました(*5)。多くのヤクザ組織が解散し、極東愛桜連合会も1967年2月解散しました(*5)。
1979年関口一門の勢力が「極東関口会」を結成しました(*5)。この極東関口会に研谷は加盟しました(*5)。1990年11月極東関口会は極東会に改称しました(*5)。極東会の会長には松山眞一(眞誠会)が就きました(*5)。1993年10月、松山眞一は「極東桜井一家関口五代目」を継承しました(*5)。極東桜井一家関口初代は、先述の関口愛治(関口一門宗家の初代)でした(*6)。「極東桜井一家関口」とは、関口一門宗家の稼業名(屋号)に該当しました。1994年極東会は直参制度を導入しました(*5)。直参制度導入にあたり、極東会では親子盃及び兄舎弟盃が交わされました(*5)。その盃事で、32人が「松山眞一の子分」になり、10人が「松山眞一の舎弟」になりました(*5)。
ちなみに極東関口会の2次団体「三浦連合会」(1976年発足。1985年「眞誠会」に改称)(*7)は、桜井一門宗家を「総家」、関口一門宗家を「本家」と呼んでいました(*8)。
先述の極東会最高顧問の村上浩三郎(研谷十五代目)は、松山眞一とは盃を交わしませんでした(*1)。松山眞一が、村上浩三郎を子分もしくは舎弟にすることに遠慮したのだと考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p166
*2 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p238-241
*3 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房),p23
*4 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p74-75
*5 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』,p15-19
*6 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』,p26-74
*7 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』,p112
*8『別冊宝島 56 ヤクザという生き方 – 都市の底に棲む男たちの物語!』「テキヤの儀式を追う! 分家・一家名乗りのハイライト「盃の義」を写真で公開!」(撮影:瀬戸正人、協力:仲村正彦、1986年、JICC出版局),p254
コメント