助川一家の縄張り

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 1998~2000年頃、「松葉会」2次団体・「助川一家」は茨城県日立市を本拠地とし、加えて北茨城市や高萩市にも縄張りを持っていました(*1)。また助川一家は福島県の一部にも縄張りを持っていました(*1)。助川一家は、江戸時代の1836年(天保七年)以降に、結成された博徒組織でした(*1)。日立市、北茨城市、高萩市の3市とも茨城県北東部に位置しています。助川一家が茨城県北東部で活動していたことが分かります。

  助川一家は滑川平吉(滑川造酒)を初代としていました(*2)。久野益義(久野幸太郎)が助川一家二代目を継承しました(*2)。

 その後、久野益義は鈴木保三郎に助川一家三代目を譲り、東京に行きました(*2)。鈴木保三郎(助川一家三代目総長)は第二次世界大戦に召集され、戦後の1945年末に帰国しました(*2)。帰国後、鈴木保三郎は助川一家を立て直しました(*2)。しかし1949年4月鈴木保三郎は病死しました(*2)。

 鈴木保三郎の病死後、神山孝三が助川一家四代目を引き継ぎました(*2)。1968年神山孝三(助川一家四代目総長)は引退、関靖夫が助川一家五代目を継承しました(*2)。

 助川一家四代目(神山孝三)体制時(1949年頃~1968年)に、助川一家は松葉会に加入しました(*3)。

 1993年5月、関喜久夫が助川一家六代目を継承しました(*3)。関喜久夫は先代(関靖夫)の実弟でした(*3)。

 助川一家五代目(関靖夫)体制(1968年~1993年5月)では、子分が200人超おり、清野彦衛が理事長を務めました(*2)。また助川一家五代目体制において「若き四天王」として滝二郎(日立市多賀町)、朝日豊(日立市助川町)、小林光男(福島県いわき市植田本町)、関昇(日立市田尻町)がいました(*2)。関喜久夫は助川一家五代目体制では本部長を務めていました(*2)。

<引用・参考文献>

*1 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p196-197

*2 『任俠百年史物語Ⅱ 関東嵐の親分衆』(藤田五郎、1981年、笠倉出版社),p287-290

*3 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p198-199

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