1982年9月、山口組2次団体・竹中組組長の竹中正久は所得税法違反の容疑で起訴されました(*1)。検察側の主張としては、1979年竹中正久が6,770万円を所得していたものの、所得税3,647万円を申告せず脱税した等がありました(*1)。太平洋戦争終了後、兵庫県姫路市で竹中正久が竹中組を結成しました(*2)。結成当時の竹中組は、愚連隊の色合いが濃い組織でした(*2)。1961年竹中組は山口組に加入、山口組2次団体になりました(*3)。加入時から竹中組が2次団体であったことから、加入前から竹中組は一定の勢力を持っていたことが考えられます。
1982年9月起訴以降の資料から、竹中組は竹中組事務所で常設賭場を開いていたことが明らかになりました(*1)。関西において賭場は「盆中」と呼ばれていました(*4)。常設賭場は「常盆」と呼ばれていました(*4)。
1965年頃までは、竹中組は3日に1回ぐらいの頻度で賭場を開帳していました(*1)。その後の1973年頃までは、竹中組は1週間(7日)に1回ぐらいの頻度で賭場を開いていました(*1)。賭博からの収入は年間3,000~5,000万円でした(*1)。
竹中組事務所の賭博ゲームはサイ本引きでした(*1)。サイ本引きとは、サイコロの出目をあてる賭博です(*5)。親が振る2つのサイコロの出目を、客が予想します(*5)。張る数字は1から6までです(*5)。7以上の出目は「-6」の処理をされます(*5)。つまり実際の出目が12の場合、「12-6」により、出目は「6」として扱われます。
サイ本引きに似たゲームとして「手本引き」がありました(*6)。関西の賭場では手本引きが主要ゲームでした(*6)。サイ本引きと手本引きは、総称して「本引き」と呼ばれました(*7)。サイ本引きの胴師に比し、手本引きの胴師には技術が求められました(*7)。5~6年では手本引きの胴師にはなれないといわれていました(*7)。後に手本引きは行われなくなり、サイ本引きが主要ゲームとなりました(*8)。
本引きは「胴元」対「客」の賭博ゲームで、客の勝ち次第では、胴元が客に金銭を払いました(*4)。
1965年頃までの竹中組事務所の賭場は、年間約120回(3日に1回ぐらい)開かれていたと推測されます。一方、1973年頃までの竹中組事務所の賭場は、年間約52回(7日に1回ぐらい)開かれていたと推測されます。仮に1973年頃までの年間収入を毎年3,000万円として、1回(1日)のテラ銭を求めてみましょう。
テラ銭(寺銭)とは、胴元が「賭博ゲームで勝った客」から徴収する手数料のことです(*9)。博徒組織の賭場におけるテラ銭の割合(控除率)は一般的に「五分」(5%)といわれていました(*10)。一方、京阪神における本引きの賭場において、テラ銭の割合は「二割」(20%)でした(*11)。
1965年頃までの竹中組事務所の賭場は1回で約25万円のテラ銭を得ていたと考えられます。一方、1973年頃までの竹中組事務所の賭場は、1回で約58万円のテラ銭を得ていたと考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『新版・現代ヤクザのウラ知識』(溝口敦、2006年、講談社+α文庫), p144-146
*2 『「ごじゃ」の一分 竹中武 最後の任俠ヤクザ』(牧村康正、2017年、講談社), p33
*3 『「ごじゃ」の一分 竹中武 最後の任俠ヤクザ』, p40
*4 『潜入ルポ ヤクザの修羅場』(鈴木智彦、2011年、文春新書),p194-195
*5 『賭けずに楽しむ日本の賭博ゲーム』(伊藤拓馬、2015年、立東舎), p22
*6 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p193
*7 『ヤクザの世界』(青山光二、2005年、ちくま文庫),p145
*8 『潜入ルポ ヤクザの修羅場』,p197
*9 『ヤクザ大全 その知られざる実態』(山平重樹、1999年、幻冬舎アウトロー文庫), p35
*10 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p195
*11 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫),p205
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