1963年時の山口組と松田組の抗争

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  1975~1978年山口組と松田組は、松田組2次団体・溝口組賭場内のトラブルから端を発し、抗争をしました(*1)。1978年抗争は松田組劣勢の状況で終了しました(*1)。抗争終了後、松田組は分裂しました(*2)。

 1975~1978年時抗争の前にも、賭場を巡るトラブルで1963年山口組と松田組は抗争をしていました(*3)。山口組2次団体・溝橋組から松田組に抗争の「申し込み」があり、松田組は応じました(*3)。溝橋組は大阪市西成区を拠点としていました(*4)。

 1963年8月9日松田組は約200人の組員を武装させ、大阪市住之江区大和川の河原に結集させました(*3)。しかし溝橋組側は現れず、代わりに大阪府警の機動隊が現れました(*3)。結果、松田組の多くが逮捕されました(*3)。溝橋組側が大阪府警に情報を与えたと推測されます。1963年時、山口組は勢力拡大を図り、全国各地で抗争をしていました(*5)。1963年における山口組と松田組の抗争の背景には、当時の山口組勢力拡大の動きがあったと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p198-206

*2 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』(木村勝美、2009年、メディアックス), p244-246,250

*3 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』, p237-238

*4 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p363

*5 『血と抗争 山口組三代目』, p373-375

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