2005年9月独立団体・國粹会が山口組傘下に入りました(*1)。前月8月には、山口組トップの交代があり、六代目山口組組長に司忍(弘道会会長)が就任しました(*1)。2004年時点、國粹会は1都4県を活動範囲とし、約350人の組員を擁していました(*2)。國粹会の特長として、銀座や六本木などの都心における「縄張りの所有権」がありました(*3)。國粹会は都心の縄張りを他団体に貸し出し、「地代収入」を得ていました(*3)。山口組新リーダーの威光を見せる目的で、「國粹会の山口組入り」はトップ交代の翌月に「設定」されたと考えるのが妥当です。
山口組入りする前、國粹会は1994年11月山口組と抗争をしました(*4)。國粹会系組事務所で山口組組員2人が射殺される事件から、抗争が勃発しました(*4)。抗争で東京、埼玉、山梨、岐阜の4都県にて計7件の発砲事件が起きました(*4)。後に両団体は和解し(*4)、抗争は3日間(11月16~18日)で終了しました(*5)。
1999年6月にも國粹会は山口組2次団体・小西一家と抗争をしました(*5)。抗争では6都県で発砲事件が起きました(*5)。後に両団体は和解し、抗争は3日間(6月2~4日)で終了しました(*5)。
1994年の抗争範囲は「4都県」で、1999年の抗争範囲は「6都県」でした。広範囲に及んだ抗争から、國粹会も広域性の組織であったことが読み取れます。
<引用・参考文献>
*1 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p454
*2 警察庁「平成16年の暴力団情勢」, p21
*3 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫), p46-47
*4『洋泉社MOOK・山口組・東京戦争』(有限会社創雄社編、2005年、洋泉社), p13-15
*5『山口組の100年 完全データBOOK』, p450-451
コメント