かつて「両国家一門」(両国家系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)が活動していました。戦前(1941年以前)、両国家系勢力は東京・新橋付近を庭場(縄張り)としていました(*1)。当時、両国家系勢力以外では「渡辺組」「芝三寸」「松坂家」などの組織も新橋付近を庭場としていました(*1)。
戦前から活動していた演歌師の石田一松は、両国家系組織の出身といわれていました(*2)。
演歌師・石田一松は全国の高市(祭りや縁日)(*3)を回っていました(*2)。演歌師は主に路上で商売をしていました(*2)。当時の演歌師は、一人が「歌手」、もう一人が「パンフレット(歌詞付き)売り」という「二人一組」の構成でした(*2)。歌手が「集客の役割」、パンフレット売りが「集金の役割」を担いました。
昔のテキヤ組織は露店における物品販売に加えて、仮設興行も行っていました(*4)。昔のテキヤ組織は芸能ビジネスも展開していたのです。テキヤ組織にとって、演歌師業は資金獲得源の1つでした。極東会初代に位置づけられる関口愛治も若い時、テキヤ組織・飴徳一家内の桜井グループの関係者として、1910~1914年横浜で演歌師として活動していました(*4)。
1986年結成の「東北神農同志会」(東北で活動するテキヤ組織の親睦団体)に、テキヤ17家名が加盟しました(*5)。17家名のうちの1つが「両国家」でした(*5)。「両国家」は稼業名であり、商店でいえば「屋号」に該当しました(*6)。つまり両国家一門の東北勢力が東北神農同志会に加わったのでした。
また1980年代まで、両国家系の勢力は北海道でも活動していました(*7)。東北や北海道においても、両国家系勢力が活動していたのです。
<引用・参考文献>
*1 『山口組永続進化論』(猪野健治、2008年、だいわ文庫), p86
*2 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p123-124
*3 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p155
*4 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p32-33
*5 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p84
*6 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房),p23
*7 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p146
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