テキヤ業界では「花又一門」(花又の本家、花又系統の一家群、花又系統の分家群)が活動していました(*1)。
1986年結成された「東北神農同志会」(東北で活動するテキヤ組織の親睦団体)には、テキヤ17家名が加盟しました(*1)。花又は17家名の1つでした(*1)。つまり花又一門の東北勢力は東北神農同志会に加わっていたのでした。
花又一門の宗家(本家)組織は「花又一家」でした(*2)。花又一家の後身が「東京花又一家」でした(*2)。花又一家は江戸時代、下総国(現在の茨城県)結城郡花又という部落にて、「じんばい」をしている者達によって結成されたといわれています(*2)。
テキヤ業界において「じんばい」とは「口上なしで商売する堅気の露店商」を指しました(*3)。一方「口上ありで商売する露店商」は「コロビ」と呼ばれました(*4)。「極東」「飯島」「寄居」「桝屋」「丁字家」の源流はコロビ系でした(*4)。
1898年(明治三十一年)小石石太郎が花又一家の十一代目帳元を継承しました(*2)。帳元とは「露店商の帳簿を預かる責任者」という意味で、「テキヤ組織の親分」を指す言葉でした(*5)。帳元は、高市に出店する露店商の帳簿を預かり、記入しました(*5)。帳元は庭場(テキヤ組織の縄張り)の監督者だったのです(*6)。
花又一家十一代目帳元・小石石太郎の子分(資料では「乾分」)に福富福太郎、重野東一郎、高橋藤太がいました(*2)。1913年(大正二年)頃、福富福太郎が花又一家十二代目帳元を継承した一方で、重野東一郎は「分家名乗り」をして「花又一家重野」を興し、また高橋藤太も「分家名乗り」をして「花又一家高橋」を興しました(*2)。
1933年頃、花又一家十二代目帳元・福富福太郎が死去し、先述の分家「花又一家重野」の二代目・小林平助が花又一家十三代目帳元を継承しました(*2)。
1942年9月頃、分家「花又一家重野」の三代目・菱沼武が花又一家十四代目帳元を継承しました(*2)。
花又一門には1956年時点で「全国花又連合会」という組織がありました(*2)。全国花又連合会は、花又一門の統括団体だったと考えられます。
1984年頃「宮城七日会」(宮城県で活動するヤクザ組織の親睦団体)に「花又連合会」(おそらく全国花又連合会のこと)が加盟していました(*7)。花又連合会の宮城県勢力は仙台市に本部を置いていました(*7)。
また北海道でも花又一門の組織が活動していました(*8)。東北や北海道において活動歴があることから、花又一門は広範囲に活動していたことが考えられます。
花又一門の勢力は東京でも活動していました。宗家組織の東京花又一家に加えて、「王子花又」「浅草花又」「下谷花又」「山谷花又」「本郷花又」(*2)「江東花又」「本深花又」(*9)が東京で活動していました。江東花又は分家「花又一家重野」のことでした(*9)。本深花又は分家「花又一家高橋」のことでした(*2) (*9)。
1931年東京府東京市の深川区森下町一帯は、花又一門の小林兵助の庭場(縄張り)でした(*10)。
宗家組織の東京花又一家のトップ(会長)と全国花又連合会のトップ(会長)を決めるにあたって、花又一門は選挙制度をとっていました(*2)。
<引用・参考文献>
*1 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p84
*2 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p360-361
*3 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫),p224
*4 『新・ヤクザという生き方』「全丁字家誠心会芝山一家物語」(朝倉喬司、1998年、宝島社文庫),p224
*5 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p147
*6『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p51
*7 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p223-224
*8 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』, p210
*9 『仁義の祭り 実録戦後やくざ史』「横浜極道者」(藤田五郎、1988年、青樹社),p160
*10 『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』(藤田五郎、1973年、徳間書店),p190
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