関口愛治はテキヤ組織「飯島一家小倉」の子分殺害に関与した事件(1930年11月)により、1939年10月まで懲役刑に服しました(*1)。関口愛治の社会不在期間、関口一門(関口愛治系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)内のテキヤ組織は当初、内田正雄(関口愛治の舎弟)により率いられていました(*2)。後に、山口城司が内田正雄に取って代わり、関口一門を率いました(*2)。
山口城司の代行時代(1939年までの間)、関口一門は信越地方、中京圏、北陸地方に進出しました(*3)。関口一門の各組織は、高市における露店商売の許可を求め、現地の庭主(露店の場所割り権限を持つ人)(*4)に対し売り込みを図ったと考えられます。
関口一門において信越地方の進出を担ったのが津田定成、中京圏と北陸地方の進出を担ったのが日置裕之でした(*3)。日置裕之は太平洋戦争終了(1945年)後も、関口一門の営業エリア拡張に寄与しました(*5)。
日置裕之は「日置組」を結成しました(*5)。その後、日置組から独立する者達が現れました(*5)。
テキヤ業界では所属組織(本家)から独立する方法としては「分家名乗り」と「一家名乗り」の2つがありました。一般的に、実績のある舎弟に「分家名乗り」が許されていました(*6)。また「一家名乗り」は、実績のある子分に許されていました(*6)。
一家名乗りに関しては、名目上するものの、自身の組織を立ち上げない者が多かったです(*7)。その場合、一家名乗りした本人だけで露店商売をしました(*6)。いわゆる「一人親方」として露店商売をしていたのでした。
本家から「分家名乗り」及び「一家名乗り」した者達が新しい組織を立ち上げ、さらにその者達の組織から「分家名乗り」及び「一家名乗り」した者達が新しい組織を立ち上げ、その動きが繰り返されていくと、次第に「一門」が形成されていきました(*7)。
テキヤ組織に関する書籍において、「本家」及び「同じ系統の組織等」の総称として「一門」という言葉が使われていました(*7)。
後年、日置一門(日置裕之系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)が集まり、「日置連合会」を立ち上げました(*5)。日置連合会は埼玉県蕨市を本拠地としていました(*5)。
<引用・参考文献>
*1 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p44-51
*2 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p62-63
*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p66
*4 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p85
*5 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p166
*6 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房),p99-100
*7 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』,p28
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