テキヤ組織・村上組

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 太平洋戦争終了(1945年)後、テキヤ組織「村上組」は、広島駅前(広島市)の闇市を仕切っていました(*1)。村上組は戦後すぐに、広島駅前に闇市を設けました(*2)。村上組は露店商売に加え、広島駅付近の商店や飲食店からミカジメ料を徴収し、また土建業にも手を伸ばしました(*2)。当時、村上三次が村上組を率いていました(*1)。村上組の収入源が多様化していたことが窺えます。

 1945年以前、渡辺長次郎は広島県のヤクザ社会に大きな影響力を及ぼしていました(*3)。渡辺長次郎は博徒組織「渡辺組」(広島市)を率いてしました(*2)。

 戦中、渡辺長次郎は「渡辺義勇報国隊」という組織を作り、メンバー約300人を軍需工場で働かせました(*1)。渡辺長次郎には「動員力」があったことが分かります。また広島県の主要な博徒ら(おそらく博徒組織トップら)の多くは「渡辺長次郎の舎弟」であったことから(*3)、渡辺長次郎は「広島ヤクザの顔役」だったと考えられます。

 1945年8月6日渡辺長次郎は、広島市に落とされた原子爆弾により、死亡しました(*3)。渡辺長次郎は当時42歳でした(*3)。

 村上組組長の村上三次は元々、テキヤ組織「祐守一家」の構成員でした(*4)。その祐守一家は、「秋月」一門(秋月系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)内の組織でした(*4)。村上組は秋月一門だったのです。

 戦前及び戦中において渡辺長次郎の勢力の一員に、祐森松男がいました(*3)。村上組は「祐森松男の系列」に位置しました(*3)。この祐森松男が、ある時、先述の祐守一家を率いていたと考えられます。もしかしたら祐守一家は「祐森一家」とも表記されていたのかもしれません。

 1946年11月、村上組は博徒組織「岡組」と抗争に至りました(*1)。岡組は広島駅に近い猿猴橋町に賭場を開帳しました(*5)。猿猴橋町の賭場は別名「岡道場」と呼ばれました(*5)。岡道場の主な賭博は「賽本引き」でした (*5)。賽本引きとは、サイコロ(賽子)の出目を張り札(1~6の数字)で当てる賭博でした(*6)。一方、上方や瀬戸内において本格的な賭博は「手本引き」でした(*7)。手本引きとは、「親」の選んだ数字を張り札(1~6の数字で当てる賭博でした(*8)。手本引きに比し、賽本引きは勝負が早かったです(*5)。

 岡道場の「道場」とは、賭場の別名でした(*9)。

 両団体とも広島駅を拠点としていることから、互いに相手側の稼業に侵食したこと(博徒組織が闇市ビジネスを侵食、テキヤ組織が賭博業を侵食)が、抗争の背景にあったとされています(*10)。抗争中、村上三次(村上組組長)と村上正明(村上三次の次男)の逮捕により、村上組は組織活動停止に陥りました(*11)。

 岡組トップの岡敏夫は戦後、警察当局から一時期「広島駅の警備隊長」を任されていました(*2)。背景には、戦後の混乱時において警察の組織力が弱かったことが挙げられます。警察は苦肉の策としてヤクザ組織に「治安活動の一部」を委託したと考えらえます。

 岡敏夫は権力側とパイプを持っていました(*11)。権力側とのパイプは、村上組との抗争において用いられました(*11)。村上親子(村上三次と村上正明)の逮捕も、権力側とのパイプによりなされたと考えられます。抗争は1954年、岡組の優勢で終わりました(*1)。

 後に村上組は復活を果しました (*12)。1964年5月「山村組」「山口(英)組」村上組の3団体が結集し、新団体「共政会」を結成しました(*13)。共政会は表向き「政治結社」と名乗りました(*13)。同年(1964年)6月には4団体が加わり、「共政会の構成団体」は7団体となりました(*13)。結成時の共政会において、村上組トップの村上正明(村上三次の次男)は「共政会副会長」のポストに就きました(*1) (*13)。つまり村上組は1964年以前に復活を果たし、村上正明をトップに置いていたことが分かります。また村上正明が共政会において副会長という重要な地位にいたことから、村上組の組織勢力が一定数いたことも推察されます。再建された村上組が露店商売を主とするテキヤ組織であったかどうか不明です。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p78-80

*2 『昭和のヤバいヤクザ』(鈴木智彦、2019年、講談社+α文庫), p172-174

*3 『実話時代』2018年2月号「シリーズ/組織と闘将 第二回 広島ヤクザ岡組三羽ガラスの死闘」(本郷海), p41

*4 『俠道: しまなみ海道異聞』(正延哲士、1999年、青樹社),p70

*5 『俠道: しまなみ海道異聞』,p66

*6 『賭けずに楽しむ日本の賭博ゲーム』(伊藤拓馬、2015年、立東舎),p22-24

*7 『俠道: しまなみ海道異聞』,p40

*8 『賭けずに楽しむ日本の賭博ゲーム』,p78-81

*9 『やくざ事典』(井出英雅、1971年、雄山閣出版),p190

*10 『昭和のヤバいヤクザ』, p270-271

*11 『昭和のヤバいヤクザ』, p179

*12 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』, p84

*13 『昭和のヤバいヤクザ』, p185

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 先ず、村上三次は本名ではなく、村上は妻方の姓、三次は侠客野狐三次に、憧れていたからと正明から聞来ました。正明は親父のテキ屋と、ワシの組は全く別物でテキ屋は嫌いだと言っていました。岡組との抗争の始まりの真実や、諸々の事実を数年の正明家での同居により知る事が出来ました。生い立ちより順を追ってお話出来る機会があればと思います。

    • 路傍で交易様

      コメントありがとうございます。

      興味深い話ですね。
      他の読者様の参考にもなると思います。

      山陽地方の情報はメディアで接することがないので。有難いです。

      重ねてお礼申し上げます。

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