太平洋戦争終了(1945年)以後、東京ではアメリカ人主導のアングラカジノが開かれていました(*1)。韓国系アメリカ人ギャングのジェイソン・リーは銀座六丁目に「クラブマンダリン」を開きました(*1)。「クラブマンダリン」の裏の顔はアングラカジノでした(*1)。「クラブマンダリン」では一晩で数億円規模の金がやりとりされました(*1)。しかし1952年7月警視庁の家宅捜索により「クラブマンダリン」はなくなりました(*1)。
永田町二丁目のナイトクラブ「ラテンクォーター」もアングラカジノを密かに営業していました(*1)。「ラテンクォーター」は1953年11月に開業しました(*1)。「ラテンクォーター」の支配人はアロンゾ・シャタックでした(*1)。アロンゾ・シャタックの後ろにいたのがテッド・ルーインです(*1)。
テッド・ルーインはアメリカのマフィアで、太平洋戦争中フィリピンで抗日ゲリラに対し、武器や資金を提供していました(*1)。抗日ゲリラを支援したことから、テッド・ルーインとアメリカ軍の間に「何かしらの関係」があったことは想像に難くありません。1946年のフィリピン独立後、テッド・ルーインはフィリピンを拠点とし、東南アジアで広く賭博業、売春業を展開しました(*1)。テッド・ルーインの別名は「東洋のアル・カポネ」でした(*1)。
1956年2月「ラテンクォーター」は警視庁から家宅捜索され、同年9月出火により全焼しました(*1)。両店の主なカジノ客は不良外国人、占領軍と関係する政財界や官僚の大物でした(*1)。両店の客層は、博徒組織の賭場の客層とは異なりました(*1)。博徒組織の営業領域とは異なる領域において、両店は違法賭博を展開していたことが分かります。
<引用・参考文献>
*1 『歌舞伎町・ヤバさの真相』(溝口敦、2012年、文春新書), p173-178
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