過激な見世物興行

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 テキヤ組織の稼業の1つに仮設興行がありました(*1)。仮設興行は「見世物興行」とも呼ばれ、サーカス、移動動物園等の演目を有していました(*1)。また化物屋敷(*1)などのグロテスクな演目、女性の性器を見せるショーなどのエロティックな演目(*2)も見世物興行の領域でした。

 見世物興行自体は江戸時代からあり、縁日の場で見世物興行が流行りました(*2)。江戸時代の見世物興行の1つに「女相撲」がありました(*2)。女相撲は文字通り、女性同士に相撲をとらせる見世物でした(*2)。客は女相撲に性的興奮を期待していました (*2)。明治時代(1868~1912年)、過激な見世物興行の多くは禁止されました(*2)。

 しかし明治時代以降も、テキヤ組織の下で過激な見世物興行は生き延びていきました(*2)。

 仮設興行界において一座の長(小屋主)は「太夫元(たゆうもと)」または「荷主(にぬし)」と呼ばれていました(*3)。一方、各地方の世話人は「分方(ぶかた)」と呼ばれていました(*3)。興行の収益は、太夫元が六分 (60%)、分方が 四分(40%)という割合で一般的には分けられていました(*4)。この割合は「四分六勘定」(分方の方が先にきました)といわれていました(*4)。その取り分は「分金(ぶきん)」と呼ばれました(*4)。

 仮設興行において客は退場時に入場料を払いました(*5)。この後払いは「後(あと)ぼり」と呼ばれました(*5)。

 見世物小屋(見世物が行われる建物)の設けられた場所は「土場(どば)」と呼ばれました(*3)。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p52

*2 『裏社会の日本史』(フィリップ・ポンス、安永愛 訳、2018年、ちくま学芸文庫), p474-476

*3 『間道 – 見世物とテキヤの領域』(坂入尚文、2006年、新宿書房),p32

*4 『間道 – 見世物とテキヤの領域』,p43

*5 『間道 – 見世物とテキヤの領域』,p52

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