テキヤ組織の業界団体

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 大正時代(1912~1926年)にテキヤ組織の業界団体(職能団体)が設立されていきました。まず1924年(大正十三年)「全国行商人先駆者同盟」が結成されました(*1)。「全国行商人先駆者同盟」は社会主義の思想を持つ露店商により構成されていました(*2)。しかし「全国行商人先駆者同盟」は数年後自然消滅に至りました(*3)。

 1923年(大正十二年)の関東大震災により、多くの生活困窮者が生まれました(*2)。生活困窮者の「受け皿」の1つとなったのが、テキヤ組織でした(*2)。大震災前の露店商数は全国で約30万人いたとされていますが、震災後60万人に増加したとされています(*2)。テキヤ組織は多数の新人を「あずかり」という形で引き受けました(*2)。「あずかり」とは「素人商売人」を意味するテキヤ業界の用語でした(*2)。

 「あずかり」つまり新人露店商も「全国行商人先駆者同盟」に加わっていました(*2)。テキヤ組織内において、新人露店商はベテラン露店商と衝突することが度々ありました(*2)。テキヤ組織は「強固な上下関係」を採用しており、新人露店商にとっては居心地の良い環境ではなかったと考えられます。当時の新人露店商にとって「全国行商人先駆者同盟」の社会主義的思想は共感しやすかったことは想像に難くありません。

 1926年(大正十五年)テキヤ組織の業界団体として「大日本神農会」が結成されました(*4)。「全国行商人先駆者同盟」とは異なり、「大日本神農会」は右翼的思想を主張しました(*3)。「大日本神農会」の会頭には山田春雄(飯島一家)(*5)が就きました(*4)。翌1927年(昭和二年)、「大日本神農会」の勢力を引き継ぐ形で、「昭和神農実業組合」が結成されました(*6)。

 「昭和神農実業組合」もまた右翼的思想を主張しました(*3)。「昭和神農実業組合」結成の大きな役割を果たしたのが倉持忠助でした(*3)。倉持忠助は飯島一家の者で、先述の山田春雄の舎弟でした(*5)。後に倉持忠助は政治家に転身、下谷区議、東京市議をつとめました(*7)。後年の政治家転身から、倉持忠助は政治家とのコネクションがあったと考えられます。

 当時の政治家にとって「全国行商人先駆者同盟」は疎ましい存在だったはずです。政治家が「右翼的な業界団体の結成」を飯島一家及び倉持忠助に促していた可能性は充分にあったと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p151

*2 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p94-96

*3 『任俠 実録日本俠客伝②』, p163-164

*4 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p105

*5 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p65

*6 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p112-114

*7 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p110

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