太平洋戦争終了(1945年)後、東京に闇市が生まれました(*1)。闇市はテキヤ組織により管轄されていました(*1)。当時の日本において主な物品は、政府の下「公定価格」で売買されていました(*2)。非公定価格や非公式経路による売買は「闇」と称されました (*2) 。闇商品の取引市場が「闇市」であり、行政機関にとって闇市は看過できない存在でした。
1947年夏から警察当局は東京のテキヤ組織に対する取締りを強化、闇市の消滅に着手しました(*3)。1950年3月東京都において「路上の露店営業」が禁止され(*4)、同年12月に東京都の路上から露店が消えました(*4)。闇市は消滅しました。東京都による路上の露店営業禁止は、「縁日の露店」も含んでいました(*5)。
しかしテキヤ組織の業界団体「東京街商組合」(*6)らの活動により、1952年末東京において縁日の露店営業の再開が認められました(*5)。東京街商組合は1952年4月に設立され (*6)、同年8月には「縁日再開促進大会」を開催していました(*5)。東京以外の大阪などの他地域でも、縁日の露店営業の再開が認められました(*5)。
1952年4月の東京街商組合設立後、全国規模の団体「全日本街商組合」が設立されました(*6)。東京以外の他地域でも、縁日再開の運動が活発的に行われていたことが示唆されます。また東京以外の他地域でも東京都と同時期に、縁日の露店営業が禁止されていた可能性が考えられます。
1950~1952年頃まで縁日の露店営業は禁止されていたことが分かります。1950~1952年頃は、テキヤ組織にとって収益源が減少する期間であったと考えられます。
東京に話を戻すと、東京を拠点に活動していたテキヤ組織は1945年10月「東京露店商同業組合」という業界団体を設立しました(*5)。しかし1947年8月警視庁の圧力により、東京露店商同業組合は解散しました(*5)。おそらく東京街商組合は「東京露店商同業組合の後継」という位置づけだったと考えられます。業界団体の設立が続いたことから、当時東京のテキヤ業界には一定のまとまりがあったと推測されます。
テキヤ業界は縁日に加えて、常設露店(テキヤ業界では「平日(ひらび)」と呼ばれる)の再開も求めました(*7)。しかし行政は常設露店の再開を認めませんでした(*7)。
<引用・参考文献>
*1 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫), p150
*2 『東京のヤミ市』, p206
*3 『東京のヤミ市』, p187-188
*4 『東京のヤミ市』, p194-195
*5 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p190-193
*6『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p189
*7『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p184
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