露店商は道路上で商売をする為、道路に関わる法律に拘束されてきました。露店商が取り締まられる主な法律としては、道路交通法があります(*1)。道路交通法は、道路上で商売をする者に対し、管轄地域の警察署長から許可を得た上で商売することを義務づけています(*1)。「警察組織許可なしの露店商売」は道路交通法違反となります。過去には道路交通法違反(道路不正使用)で摘発される露店商が一定数いました(*2)。
裏返せば、露店商の中には警察組織に許可を得ないまま道路上で商売をした者(無許可の露店商)が一定数いたことが分かります。テキヤ業界では、無許可の露店商は「ひろい」と呼ばれました(*3)。道路交通法は1960年12月施行されました(*1)。
戦前は1926年(大正十五年)「道路交通取締規則」の発令により(*4)、道路上の露店商売は警察組織による許可制の下、認められていました(*5)。「許可あり」の道路上の露店商売は「平日」(ひらび)と呼ばれていました(*3)。
戦後、駅前等において闇市が形成されました(*6)。戦時中からの価格等統制令、戦後の物価統制令(1946年3月公布)により、当時物やサービスは、公定価格(固定価格)で供給されていました(*7)。政府の統制機関が公定価格品の供給元でしたが(*7)、戦後間もない頃充分に物資を供給できず、日本中で物資の需給が逼迫しました(*8)。物資需給逼迫の状況は「新たな供給者」を必要としました。闇市が「新たな供給者」を担ったのです。
闇市とは「公定価格品ではない商品」、つまり非公定価格品(値付け自由な商品)が売買された市場(違法領域の市場)を指しました(*7)。戦後テキヤ組織が駅前等の土地を不法占拠する形で、闇市を形成しました(*9)。当初の闇市の形態は露店でした(*7)。後に一部の闇市は露店から長屋の店舗型に変わっていきました(*7)。
1946年夏以降、警察組織が闇市に対する取締りを強化しました(*6)。また公定価格が廃止されていきました。1947年10月における「132品目公定価格廃止」から始まり、他品目の公定価格も次第に廃止されていきました(*7)。闇市の存在意義は薄まっていきました。東京都に関しては1950年3月、道路上の露店商売(闇市も含む)が禁止されました(*10)。つまり1950年3月以降の東京都では「闇市ではない道路上の露店商売」(先述の「平日」)も処罰の対象となったのです。
1950年東京都から闇市が消滅しました(*10)。1950年代前半、テキヤ組織は道路上の露店商売(「平日」)再開を訴えましたが、再開の訴えは認められませんでした(*3)。以降、テキヤ組織は主に高市(縁日や祭)の仮設露店商売に専念することになりました(*3)。
1960年12月道路交通法の施行により、警察組織による許可制の下で道路上の露店商売が再開されました(*1)。おそらく警察組織はテキヤ組織には許可を出さず、テキヤ組織以外の個人に許可を出したと考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書), p89-95
*2 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書), p184
*3 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p184,191
*4 『盛り場の民俗史』, p91
*5 『社会学選書⑪ 露店研究』(横井弘三、2021年、いなほ書房), p2,4
*6 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫), p166-167
*7 『東京のヤミ市』, p6,205-207
*8 『東京のヤミ市』, p108,116
*9 『東京のヤミ市』, p152-153
*10 『東京のヤミ市』, p188,194-195
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