稲川会二代目会長の石井進(会長在任期間:1986~1990年)は、1946年神奈川県横須賀市の「石塚一家」構成員になり、ヤクザ業界に足を踏み入れました(*1)。石塚一家のトップ(総長)は、石塚儀八郎でした(*1)。石井進は「石塚儀八郎の子分」として石塚一家に入りました(*1)。
東京・南千住出身の石井進は1944年徴兵され、横須賀市の海兵団に入り、東京の八丈島に配属されました(*1)。1945年12月石井進は復員し、横須賀市の運送会社に就職しました(*1)。
石井進は1948年「代貸」になりました(*1)。博徒業界では代貸とは「賭場の現場責任者」を意味しました(*2)。代貸という役職が設けられていたことから、石塚一家は博徒系組織であったことが分かります。
1960年時、石塚一家の上部団体は「双愛会」でした(*3)。双愛会は1952~1954年、内房地区を除いた千葉県下の博徒組織によって結成されました(*4)。1次団体・双愛会は連合型の組織形態をとっていました(*4)。
ゆえに石塚一家は1952~1954年以降、双愛会に加盟したと考えられます。また石井進が石塚一家に入った1946年、石塚一家は独立団体であったと考えられます。
双愛会が神奈川県の横須賀市にも影響を及ぼしていたことが分かります。
1961年石塚一家トップの石塚儀八郎が引退しました(*1)。同年(1961年)石井進が石塚一家のトップ(総長)を継ぎました(*1)。その後同年(1961年)内に石塚一家は鶴政会(現在の稲川会)に入りました(*1)。
1955年に布石がありました。1955年石井進は稲川組(鶴政会の前身)幹部・井上喜人と兄弟盃を交わしていました(*1)。1959年11月稲川組は「鶴政会」に改称しました(*5)。
以上から、1960~1961年の間に、石塚一家は双愛会を脱退していたと考えられます。
<引用・参考文献>
*1 『新版・現代ヤクザのウラ知識』(溝口敦、2006年、講談社+α文庫), p268-271
*2 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p17
*3 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p37-39
*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p112
*5 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』,p34
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