ちょぼいち

  • URLをコピーしました!

 賭博の1つに「ちょぼいち」がありました (*1) 。ちょぼいちは、サイコロ1つと台紙(1~6の数字が記入された紙)を用いて、行われました(*1)。「親」(胴親)と「複数の子」(複数の張子)が対戦しました(*1)。子らがサイコロの出目(出た数字)を予想し金を張った後、親がサイコロを振りました(*1)。子は、「張った数字」と「出目」が一致していたら、「勝者」になりました(*1)。「勝者の子」への配当金は、賭け金の4倍でした(*1) (*2)。また出目が「2」もしくは「5」の際、配当金が、賭け金の5倍になる場合もありました(*2)。

 逆に「張った数字」と「出目」が一致していなかった場合、その子は「敗者」になりました(*1)。「敗者の子」は、賭け金全額が没収されました。

 大正時代(1912~1926年)、九州の岸岳炭坑では、ちょぼいちが流行りました(*3)。岸岳炭坑のちょぼいちでは、「勝者の子」はテラ銭を親に支払いました(*3)。

 テラ銭(寺銭)とは、胴元(賭博の主催者)が客から徴収する手数料のことでした(*4)。テラ銭の割合(控除率)は一般的に「五分」(5%)といわれていました(*4)。

 岸岳炭坑のちょぼいちでは、テラ銭の割合は5%でした(*3)。

 また一般的にちょぼいちのテラ銭の割合は一割(10%)だったと述べる資料もあります(*2)。ちょぼいちでは「胴つぶれ」の場合、テラ銭の割合は5%になりました(*2)。

 胴つぶれとは、親(胴親)の負けが込んで、親の「胴金」全額がなくなったことを指しました(*5) (*6)。胴金とは「親の手持ち資金」(別の言い方をすれば「子らへの配当に備えた手持ち資金」)のことで、賭博ゲームの開始前に親はその場所に胴金を出しました(*7)。

 胴金の額が100万円で、子が5人いたとします。この場合、1回の勝負につき「子全員(5人)の賭け金総額」は100万円以内にしなければなりませんでした(*7)。例えば子全員(5人)の賭け金総額が110万円になった場合、100万円以内に収まるように、子らの間で調整がなされました (*7)。「1回の勝負における子全員の賭け金総額の上限」は「胴前」と呼ばれました(*7)。この場合、胴金の胴前は100万円でした。つまり胴前とは「胴金の額」ともいえました。

 胴金の額(胴前)は状況によって変わる場合もあれば、毎回の勝負において胴金の額(胴前)が同じという場合もありました(*7)。前者は「胴前変動制」で、後者は「胴前固定制」だったといえます。

 先述の例(胴金の額が100万円で、子が5人)において胴前固定制(毎回の勝負において胴前は100万円)が敷かれていたとします。直前の勝負で親が負けて、親の手持ち資金が0円になった場合、これを胴つぶれと呼びました。胴つぶれになったら、親は交代しました(*6)。

<引用・参考文献>

*1 『賭けずに楽しむ日本の賭博ゲーム』(伊藤拓馬、2015年、立東舎), p18-19

*2 『やくざ事典』(井出英雅、1971年、雄山閣出版),p241-244

*3 『興行界の顔役』(猪野健治、2004年、ちくま文庫), p390-391

*4 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p195

*5『実証・日本のやくざ―正統派博徒集団の実像と虚像』(井出英雅、1973年、立風書房),p119

*6 『賭けずに楽しむ日本の賭博ゲーム』,p9

*7 『賭けずに楽しむ日本の賭博ゲーム』,p6-7,142

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次