19世紀前半のベトナムでは「銀の密輸出」が盛況でした。当時のベトナムは阮朝(統治期間:1802~1945年)によって治められていました(*1)。阮朝はベトナムで初めて、南北地域を統一させた政権でした(*1)。
18世紀以降、ベトナムの北部山地では多数の銀鉱山が開発されました(*2)。当時最大の銀鉱山として知られたのが「送星銀山」(太原省)でした(*2)。
送星銀山は1775年に閉じられましたが(*2)、阮朝成立(1802年)以降も鉱山の開発はベトナムで続きました(*3)。阮朝は銀の輸出を禁止しました(*3)。しかし阮朝時代「密輸」という形で銀はベトナムから中国に流れていきました(*3)。
阮朝はベトナム史上初めて「銀による納税」をとりいれました(*4)。阮朝以前のベトナムの政権は、現物(主に米)もしくは銭貨を税として徴収していました(*4)。
阮朝創設者の嘉隆帝は「土地税」「人頭税」「国内の関税」「入港税」において銀による徴税を開始しました (*4)。該当の税金を課せられた者は、現物もしくは銭貨を銀に変えて、阮朝に納税する必要がありました。
当時のベトナムでは「銀の密輸出」が盛んだった為、ベトナム国内の銀流通量が減少していました(*3)。結果、銀の価値が相対的に上がっていました(*3)。嘉隆帝時代(1802~1820年)は銀1両=1,680文(銭貨)以下の相場でしたが、1820~1830年になると銀1両=3,000文程度まで、銀の価値が上がりました(*5)。銀による納税を課せられた者は、「より多くの現物」もしくは「より多くの銭貨」を用意しなければ、銀を確保できなくなったのでした。
阮朝二代目皇帝の明命帝(在位期間:1820~1841年)の時代(*3)、阮朝は対策として一部、銀から現物もしく銭貨による納税に切り替えました(*4)。また明命帝は1838年及び1939年に銀輸出の禁止令を発布、改めて銀の密輸を禁じました(*3)。
明命帝時代(1820~1841年)、ベトナムでは銀に加えて「米の密輸出」も盛んでした(*6)。米は主に中国に送られました(*6)。逆にベトナムに密輸されたものの1つがアヘンでした(*6)。明命帝は1820、1824、1832、1840年にアヘン禁令を公布しました(*7)。4回のアヘン禁令から、当時のベトナムではアヘンが蔓延していたことが窺えます。
<引用・参考文献>
*1 『銀の流通と中国・東南アジア』「5章 近世ベトナムの経済と銀」(多賀良寛、2019年、山川出版社), p205
*2 『銀の流通と中国・東南アジア』「5章 近世ベトナムの経済と銀」, p206-209
*3 『銀の流通と中国・東南アジア』「5章 近世ベトナムの経済と銀」, p212-213
*4 『銀の流通と中国・東南アジア』「5章 近世ベトナムの経済と銀」, p225
*5 『銀の流通と中国・東南アジア』「5章 近世ベトナムの経済と銀」, p229
*6 『アジア遊学260 アヘンからよむアジア史』「フランス領インドシナのアヘン」(関本紀子、2021年、勉誠出版), p60
*7 『アジア遊学260 アヘンからよむアジア史』「フランス領インドシナのアヘン」, p58
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