一丁一家

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 明治時代(1868~1912年)の北海道では開拓が盛況となり、本州から人々が北海道に渡ってきました(*1)。出稼ぎ労働者は主に飯場で生活しました(*1)。飯場では賭博が開帳されていました(*1)。出稼ぎ労働者の増加により、北海道における飯場の数も増えていったと考えられます。「飯場の数の増加」は「賭場の数の増加」も意味していました。明治時代の北海道では賭博の需要が拡大したと考えられます。明治時代の北海道には、博徒組織が活発的に活動できる「土壌」があったのです。

 明治時代の北海道で活動した有名な博徒組織としては、丸茂一家と一丁一家がありました(*2)。丸茂一家は土工出身の森田常吉により結成され、函館に本拠地を置いていました(*2)。丸茂一家は東北地方や東京などにも進出するなど活動範囲を拡大させ、最盛期には約2万人の構成員を抱えていたといわれています(*2)。

 1910年(明治四十三年)函館警察署は丸茂一家に対し博徒結合罪を適用し、取締りました(*2)。取締りの背景には、1907年(明治四十年)の「新刑法」公布がありました(*3)。新刑法は翌1908年(明治四十一年)施行されました(*3)。結果、森田常吉らをはじめ多くの幹部らが逮捕され、服役することになりました(*2)。丸茂一家では計81人の貸元が服役しました(*3)。ちなみに当時、刑務所は「監獄」呼ばれていました(*4)。1922年(大正十一年)監獄官制改正で監獄は「刑務所」に改称されました(*4)。

 以降、丸茂一家は衰退し、解散しました(*2)。

 一丁一家は札幌に本拠地を置いていました(*2)。北海道では一丁一家の勢力は、丸茂一家と比肩するといわれていました(*2)。一丁一家は石狩、夕張炭山地帯に勢力を張っていました(*5)。1890年(明治二十三年)一丁一家は利尻島を縄張りに加えました(*6)。また一丁一家の幹部・中西忠輝(*7)は、夕張、室蘭、岩見沢を縄張りとしており、1898年(明治三十一年)には小樽も縄張りとしました(*8)。

 一丁一家は賭博に関しては、鉄道工事の作業場に目をつけていました。すでに鉄道工事の作業場では、労働者達が自ら賭場を開帳していました(*9)。一丁一家は鉄道工事の有力者らに話をつけ、鉄道工事の作業場の賭場を「一丁一家の縄張り」としたのです(*9)。つまり一丁一家は労働者達から、賭場を奪い取ったのでした。

 一丁一家は賭博以外の収入源も持っていました。一丁一家は札幌地方において遊郭全体からのかすり(ミカジメ料に該当)、駅やその他の車夫の株、興行の権利等を握っていました(*10 )。

 しかし一丁一家にも博徒結合罪が適用され、トップの及川喜三郎が逮捕、服役を余儀なくされました(*2)。及川喜三郎は1916年(大正五年)出所し、翌1917年(大正六年)幹部らと協議して一丁一家の解散を決めました(*11)。同年(1917年)、一丁一家は解散しました(*11)。一丁一家解散の翌年(1918年)、及川喜三郎は66歳で死去しました(*11)。

 また当時の北海道では博徒組織ではなかったものの、十五番組(中西鉄五郎一家)も有名でした(*10 )。十五番組は釧路で荷揚げ、艀(はしけ)舟運送業を手掛けていました(*12)。また十五番組は函館にも拠点を置いていました(*10 )。

<引用・参考文献>

*1『FOR BEGINNERS シリーズ ヤクザ』(朝倉喬司、1990年、現代書館), p116-117

*2 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p203-205

*3 『実録 東海の親分衆』(藤田五郎、1979年、青樹社),p168

*4 『実録 東海の親分衆』,p239

*5 『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』(藤田五郎、1973年、徳間書店),p90

*6 『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』,p106-107

*7 『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』,p104

*8 『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』,p151

*9 『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』,p111

*10  『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』,p98

*11 『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』,p172

*12 『やくざ逆破門状 実録・北海の抗争』,p108

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