1991年共産主義体制が崩壊したアルバニアでは、複数政党制が導入されました(*1)。1992年民主党(Democratic Party)が選挙に勝ち、民主党リーダーのサリ・ベリシャ(Sali Berisha)が1992年4月から1997年3月までアルバニアの大統領を務めました(*1)。
民主党は、海外移住のアルバニア人から資金提供を受けていました(*1)。提供資金の一部は、海外のアルバニア人犯罪者からのものでした(*1)。紛争により旧ユーゴスラヴィアでは1992~1995年禁輸制裁が国連から科されました(*1)。禁輸制裁期間中、アルバニア政府は「シュポニーヤ」(Shqiponija:日本語訳「鷹」)という名前の会社を設立しました(*1)。その会社は民主党の資産で、会社を率いていたのは外務副大臣シェフー・トリタン(Shehu Tritan)でした(*1)。シュポニーヤは禁輸制裁ルールを破り、旧ユーゴスラヴィアに石油を密かに輸送していたのです(*1)。後に国際社会がシュポニーヤの禁輸制裁破りを知ることとなり、シュポニーヤは廃業しました(*1)。一部の政治家もアウトロー組織同様のことをしていたのです。
1993~1996年アルバニアの内務大臣を務めたムサラ・アグロン(Musarah Agron)はベラト(アルバニア中南部の都市)出身のアウトロー組織に対し「免責」を与えていました(*1)。一方ベラト出身のアウトロー組織は選挙時の投票活動や政治活動で「借り」を返していきました(*1)。
1991年以降アルバニアの経済は自由化されました(*1)。ゆえに1990年代アルバニアの金融システムは原始的でした(*1)。1993~1997年の間に沢山の金融会社が登場し、高利率の金融商品を販売していきました(*1)。高利率の金融商品の多くは「ネズミ講」に基づくものでした(*1)。当時からネズミ講に基づく金融商品の存在はアルバニア内外で知られており、IMF(国際通貨基金)はネズミ講に基づく金融商品の販売をやめるようアルバニア政府に助言しましたが、アルバニア政府は放置していました(*1)。アルバニア政府は「不作為犯」といえます。
1997年1月ネズミ講のシステムが崩壊し、アルバニア経済は大混乱に陥りました(*1)。同年多くの人が職を失い、100ほどの国営工場が潰れました(*2)。また同年、政府に対する暴動が起きました(*1)。社会は混乱し、約600万人のアルバニア人がイタリアやギリシアに移住したと見られています(*2)。
1997年3月2日サリ・ベリシャ大統領は国家非常事態宣言を出しました(*2)。1997年6月アルバニア議会選挙で、社会党(Socialist Party)が勝利しました(*2)。新大統領にはレジェップ・メイダニ(Rexhep Meidani)が就任しました(*2)。1997年の混乱期に乗じてアルバニアの有名な犯罪者はギリシアやアルバニアの刑務所から脱走し、またアルバニア系アウトロー組織は多くの地域で影響力を強めていきました(*2)。1997年ネズミ講のシステム崩壊に伴うアルバニアの大混乱は、アルバニア系アウトロー組織を肥大化させる要因となったのです。
<引用・参考文献>
*1 『Decoding Albanian Organized Crime Culture,Politics,and Globalization』(Jana Arsovska,2015, University of California Press), p29-33
*2 『Decoding Albanian Organized Crime Culture,Politics,and Globalization』, p35-37
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