1880年から1920年の間アメリカ合衆国では、東および南ヨーロッパ出身の移民が増加しました(*1)。アメリカ合衆国中西部ミシガン州の都市・デトロイトでは自動車産業が当時勃興しており、デトロイトの自動車工場は労働者としてヨーロッパ出身の移民を採用しました(*1)。結果デトロイトには1910年までにイタリア人、ユダヤ人、ポーランド人、アイルランド人を中心とするヨーロッパ出身者が多く住むようになりました(*2)。
しかし中には本国で裏稼業をしており、新天地アメリカ合衆国でも裏稼業を続ける者達がいました(*1)。デトロイトでは20世紀初期までに裏稼業者達が組織化されていきました(アウトロー組織が形成されていきました)(*1)。
デトロイトで最初に結成されたアウトロー組織は「アダモ・ギャング」(Adamo Gang)でした(*2)。アダモ・ギャングは1905年トニー・アダモ(Tony Adamo)、ヴィト・アダモ(Vito Adamo)の兄弟(*1)によって結成されました(*2)。アダモ・ギャングは1910年までにデトロイトの酒流通、賭博、高利貸し等々のビジネスを支配下に置きました(*2)。
アダモ・ギャングに対抗したのが、ジャノーラ兄弟率いる「ジャノーラ・ギャング」(Gianolla gang)でした(*2)。1913年アダモ・ギャングとジャノーラ・ギャングとの間で抗争が勃発しました(*2)。抗争でジャノーラ・ギャングはアダモ兄弟の殺害に成功し、アダモ・ギャングに代わって、デトロイト裏社会に君臨していきました(*1)。
1919年ジャノーラ・ギャング内で「クーデター」が起きました(*2)。配下のジョン・ヴィターレ(John Vitale)がジャノーラ兄弟に反旗を翻したのです(*2)。ジョン・ヴィターレ側はジャノーラ兄弟を殺害し、権力を奪取しました (*2)。しかし権力奪取の1年以内にジョン・ヴィターレはジャノーラ兄弟の腹心に殺害され、「ジョン・ヴィターレの政権」は短期間で終了しました(*2)。
アメリカ合衆国全体の禁酒法(1920~1933年)(*3)施行後、旧ジャノーラ・ギャング最高幹部のサルバトーレ・カタラノッテ(Salvatore Catalanotte)がデトロイト裏社会のボスに選出されました(*2)。ミシガン州は先立って1918年に禁酒法を施行していました(*1)。ちなみにアメリカ合衆国の州で最初に禁酒法を制定させたのはメイン州でした(*3)。メイン州ではアルコール度数の高い酒が消費されていたこともあり、1851年禁酒法が制定されました(*3)。
禁酒法時代の後期(1925~1933年)「パープル・ギャング」(Purple Gang)がデトロイトの裏社会で存在感を発揮していました(*4)。パープル・ギャングはユダヤ系の組織で、イタリア系組織等の他団体と連携しつつ、禁酒法下のデトロイトにおいて密売酒の流通をほぼ掌握していました (*4)。またパープル・ギャングはデトロイトにおいて賭博、売春、違法薬物等のビジネスでも資金を獲得していました(*4)。
エイブ・バーンスタイン(Abe Bernstein)がパープル・ギャングの創設者であり、トップとして組織を率いていました(*5)。しかし禁酒法時代の終わり頃、最高幹部らの有罪判決もあり、パープル・ギャングは解散しました(*4)。首領エイブ・バーンスタインは「引退」するものの、1960年代後半に死去するまで裏社会とは関係を持ち続けていました(*5)。
<引用・参考文献>
*1 『Motor City Mafia: A Century of Organized Crime in Detroit (Images of America)』「FOREWORD」(Paul R. Kavieff,2006, Arcadia Publishing), p7
*2 『Motor City Mafia: A Century of Organized Crime in Detroit (Images of America)』(Scott M. Burnstein,2006, Arcadia Publishing), p9
*3 『<麻薬>のすべて』(船山信次、2019年、講談社現代新書),p183-184
*4 『Motor City Mafia: A Century of Organized Crime in Detroit (Images of America)』, p23
*5 『Motor City Mafia: A Century of Organized Crime in Detroit (Images of America)』, p24
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