メキシコ北西部に位置するチワワ州は、アメリカ合衆国のニューメキシコ州とテキサス州に接しています。チワワ州の大都市シウダー・フアレスは、メキシコ=アメリカ合衆国の国境に接しています。シウダー・フアレスからメキシコ=アメリカ合衆国の国境を越えた先には、テキサス州のエル・パソ(テキサス州最西端の都市)があります。
図 シウダー・フアレスの地図(出典:Googleマップ)
シウダー・フアレス(メキシコ)とエル・パソ(アメリカ合衆国)の間にはリオ・グランデ川が流れています。リオ・グランデ川の河口はメキシコ湾になります。
「シウダー・フアレス-エル・パソ」から「河口のメキシコ湾」まで、リオ・グランデ川が「メキシコ=アメリカ合衆国の国境線」の役割を果たしています(*1)。
昔からシウダー・フアレスは、違法薬物の輸送上(メキシコ→アメリカ合衆国)において「要衝」でした(*2)。1980年代半ばからラファエル・アギラール・グアハルド(Rafael Aguilar Guajardo)がシウダー・フアレスの違法薬物ビジネスを仕切るようになりました (*2)。アギラール・グアハルドは「メキシコ連邦保安総局」(Federal Security Directorate)の元地方司令官でした(*2) (*3)。
当時のシウダー・フアレスでは、アギラール・グアハルドのライバルとして、オンティベロス・ルセロ(Ontiveros Lucero)がいました(*2)。しかしオンティベロス・ルセロは1986年4月に逮捕されました(*2)。以後、アギラール・グアハルドがシウダー・フアレスにおいてコロンビアのメデジンからの違法薬物を独占的に扱うようになりました(*2)。
1989年アカプルコの会議では、メキシコ違法薬物ビジネス業界の大物ミゲル・アンヘル・フェリックス・ガジャルド(Miguel Ángel Félix Gallardo)が「シウダー・フアレス-ヌエボ・ラレド(タマウリパス州国境地域)間」の縄張り(プラサ:plaza)(*3)をアギラール・グアハルドに割り当てました(*2) 。つまり業界がアギラール・グアハルドを「シウダー・フアレスの支配者」であると認めたのでした。
1980年代半ば以降のアギラール・グアハルドの組織は「フアレス・カルテル」(Juárez Cartel)と呼ばれました(*2)。
しかし1993年4月12日アギラール・グアハルドはカンクン(キンタナ・ロー州)で射殺されました(*2)。フアレス・カルテル最高幹部のラファエル・ムニョス(Rafael Muñoz)は、アギラール・グアハルド射殺の7カ月前に、ティファナ(バハ・カリフォルニア州)で逮捕されていました(*2)。
またフアレス・カルテル後継者候補のクアウテモック・オルティズ(Cuauhtémoc Ortiz)は同年(1993年)5月6日にメキシコシティで拉致され、拷問の後に死亡しました(*2)。クアウテモック・オルティズも、アギラール・グアハルド同様、メキシコ連邦保安総局の元職員でした(*2)。
混乱の中、1993年5月アマド・カリージョ・フエンテス(Amado Carrillo Fuentes)がフアレス・カルテルのトップに就きました(*2)。当初アマド・カリージョは兄弟らとともに、オヒナガ(チワワ州北部の街)で違法薬物ビジネスを取り仕切っていました(*2)。後にカリージョ兄弟はオヒナガからシウダー・フアレスに拠点を移しました(*2)。カリージョ兄弟とアギラール・グアハルドの関係は当初悪くなかったものの、次第に両者は対立していきました(*2)。
クアウテモック・オルティズを拉致したのは、カリージョ兄弟側の者達でした(*2)。状況からカリージョ兄弟がフアレス・カルテルを簒奪したと考えるのが妥当でしょう。
アマド・カリージョは違法薬物ビジネスで改革をしていきました。まずアマド・カリージョは中古旅客機を購入、その旅客機を「輸送手段」にして、コカインの大量輸送を実現させました(*2)。
1995年夏コロンビアの「カリ・カルテル」(Cali Cartel)が力を落とすと、以降フアレス・カルテルは、コロンビアの組織を介さずに、南米の現地からコカインを直接仕入れていくようになりました(*2)。フアレス・カルテルはボリビアの生産者から84トンのコカインを購入し、飛行機でメキシコまで運びました(*4)。
直接仕入れにより、コカイン仕入れ代金は安くなり、フアレス・カルテルの利益は増加しました(*2)。
特にボリビアは内陸国で、2010年代前半において道路の舗装率は20%で、雨季になると多くの道路が通行困難になり、鉄道網もほとんど機能してなかったです(*5)。ゆえに飛行機は輸送手段として重宝されたのかもしれません。ちなみに2020年の日本における道路の舗装率(簡易舗装を含める)は約82.5%でした(*6)。
その後(1995年以降)、フアレス・カルテルとカリ・カルテルが交渉した結果、新しい役割分担が定められました(*4)。カリ・カルテルがメキシコまでのコカイン輸送を担い、一方フアレス・カルテルがメキシコからアメリカ合衆国までのコカイン輸送、アメリカ合衆国内のコカイン流通を担うことになりました(*4)。加えてフアレス・カルテルは、ボリビア等からのコカイン直接仕入れも、カリ・カルテルから認められたと考えられています(*4)。
アマド・カリージョは違法薬物ビジネスの運営を部下達に任せていきました(*2)。しかし1997年7月アマド・カリージョはメキシコシティにおいて整形手術中に死亡しました(*2)。
以後、フアレス・カルテルの違法薬物ビジネスは、アマド・カリージョの兄弟であるビセンテ・“エル・ビセロイ”・カリージョ・フエンテス(Vicente “El Viceroy” Carrillo Fuentes)、イスマエル・“エル・マヨ”・ザンバダ・ガルシア(Ismael “El Mayo” Zambada García)、フアン・ホセ・“エル・アズール”・エスパラゴサ・モレノ(Juan José “El Azul” Esparragoza Moreno)、アルトゥーロ・ベルトラン・レイバ(Arturo Beltrán Leyva)の4人に分割されました(*2)。
フアレス・カルテルの中核事業は、ビセンテ・カリージョと“エル・アズール”により引き継がれました(*2)。ビセンテ・カリージョがフアレス・カルテルを率いていったと考えてよいでしょう。フアレス・カルテルは親睦団体の「連合」(Federación)に加盟しました(*2)。シナロア・カルテル(Sinaloa Cartel)主導の下で「連合」は2001年10月に結成されました(*7)。
「連合」の目的は「密輸経路の自由化」でした(*7)。過去のメキシコ麻薬カルテル業界では、組織ごとに密輸経路はほぼ固定化されており、結果捜査機関に目をつけられやすく、また密輸経路の管轄組織に払う通行手数料「デレッチョ・デ・ピソ」(derecho de piso)も高くなりがちでした(*7)。密輸経路が自由化されれば、捜査機関からの監視が妨げられ、また通行手数料は安くなると「連合」は主張しました(*7)。
結果、多くの麻薬カルテルが加盟しました(*7)。一方、ティフアナ・カルテル(Tijuana Cartel)とガルフ・カルテル(Gulf cartel)は「連合」に加わりませんでした(*7)。当時のティフアナ・カルテルは、太平洋岸のバハ・カリフォルニア州のティフアナ等を縄張りとし、縄張り内を通行する他団体から通行手数料を徴収していました(*8)。
また当時のガルフ・カルテルはメキシコ湾西岸のタマウリパス州、ヌエボ・レオン州等を縄張りとし(*9)、例えばモンテレイ(ヌエボ・レオン州)~ヌエボ・ラレド(タマウリパス州)の密輸経路において他団体から通行手数料を徴収していました(*7)。バハ・カリフォルニア州、タマウリパス州もメキシコ=アメリカ合衆国の国境に接しています。
ティフアナ・カルテルとガルフ・カルテルは「通行料の徴収側」といえます。つまり通行料徴収側の組織にとって「密輸経路の自由化」は厄介な案件だったことが分かります。
フアレス・カルテルも、メキシコ=アメリカ合衆国の国境に接するシウダー・フアレスを拠点にしてきたことから、実際シナロア・カルテルから高額な通行料を徴収してきました(*2)。フアレス・カルテルも「通行料の徴収側」といえます。しかしフアレス・カルテルは「連合」に加盟しました。
加盟の背景には、フアレス・カルテルがシナロア・カルテルの力を欲していたことがありました(*2)。2002年3月ガルフ・カルテルがヌエボ・ラレド(タマウリパス州)に侵攻、地元組織の「ロス・チャチョス」(Los Chachos)を破り、同年5月までにヌエボ・ラレドの縄張りを奪い取りました(*10)。ガルフ・カルテルにおいては戦闘部隊「セタス」(Zetas)が侵攻の実行部隊として活躍しました(*10)。
ロス・チャチョスは、フアレス・カルテルとミレニオ・カルテル(Milenio Cartel)の「代理人」の役割も担っていました(*10)。つまりフアレス・カルテルとミレニオ・カルテルがヌエボ・ラレドを間接的に「共同統治」していたのです。1997年時にはフアレス・カルテルはシナロア州のマサトランも縄張りとしていました(*11)。先述したアルトゥーロ・ベルトラン・レイバのベルトラン・レイバ兄弟(Beltrán Leyva brothers)の組織がフアレス・カルテルの代理としてマサトランの縄張りを監督していました(*11)。
ガルフ・カルテルは侵攻前まで、違法薬物の密輸でヌエボ・ラレドを利用した際は、ロス・チャチョスに通行手数料を払っていました(*10)。侵攻1カ月前の2002年2月ガルフ・カルテルのセタスは装甲SUV3台でコカイン2トン(2,000kg)をまずヌエボ・ラレドに向けて運びました(*10)。コカイン輸送時、装甲SUV3台の他にトラックなどの乗り物があったのかは不明です。ヌエボ・ラレドからはメキシコ連邦捜査局(Agencia Federal de Investigación:AFI)の共謀職員がセタスの輸送部隊を先導していきました(*10)。
しかし先導中にメキシコ連邦捜査局の共謀職員及び他の職員がコカイン2トンの奪取を試みたのです(*10)。セタス側は対抗し、逆にメキシコ連邦捜査局の職員達を拘束しました(*10)。その後セタス側は職員達を解放、一旦ヌエボ・ラレドから退却しました(*10)。
ガルフ・カルテルは該当のコカイン2トン分の通行手数料をロス・チャチョスに払っていました(*10)。ガルフ・カルテルは、事前にロス・チャチョス側がコカイン2トンの輸送を知っていたことから、ロス・チャチョス側の仕業だと考えたのでしょう。ガルフ・カルテルは報復を決意、翌3月にセタスをヌエボ・ラレドに送り込みました(*10)。ロス・チャチョス側の戦闘要員は300人で、セタス側は50~60人でしたが、セタスが勝利しました(*10)。セタスの初陣は、この2002年3月ヌエボ・ラレド侵攻といわれています(*10)。初陣で要衝のヌエボ・ラレドを落としたことにより、メキシコ麻薬カルテル業界の内外で、セタスの知名度が一気に上がったことは想像に難くありません。
ガルフ・カルテルがヌエボ・ラレドを奪いとったことは、フアレス・カルテルにとってヌエボ・ラレドにおける「利権の消滅」を意味しました。フアレス・カルテルは、ヌエボ・ラレド奪回を図り、シナロア・カルテルに援助を求めました(*2)。シナロア・カルテルは、フアレス・カルテルとミレニオ・カルテルと組み、ヌエボ・ラレドの奪回に手を貸すことにしました(*2)。
しかしフアレス・カルテルはヌエボ・ラレド奪回に関して主導せず、シナロア・カルテルとミニレオ・カルテルに任せる傾向にありました (*2)。加えてフアレス・カルテルのロドルフォ・“エルニーニョ・デ・オロ ”・カリージョ・フエンテス (Rodolfo“El Niño de Oro”Carrillo Fuentes) はシナロア・カルテルのリーダー格であるホアキン・“エル・チャポ”・グスマン・ロエラ(Joaquin “El Chapo”Guzmán Loera)を嫌っていました(*2)。ロドルフォ・カリージョは、ビセンテ・カリージョらカリージョ兄弟の一番若い弟でした(*2)。ロドルフォ・カリージョはシナロア・カルテル側に無礼な態度をし、しまいには“エル・チャポ”の傭兵であるホセ・アントニオ・“エル・ジャガー”・トーレス・マルーフォ(José Antonio“El Jaguar”Torres Marrufo)を誘拐してしまいました(*2)。
結果シナロア・カルテルはフアレス・カルテルとの関係解消を決意、2004年9月11日クリアカン(シナロア州)でロドルフォ・カリージョを殺害しました(*2)。以降、両団体の間で抗争が始まりました(*2)。しかし両者の争いは次第に鎮静化していきました(*2)。
2007年5月シナロア・カルテルはヌエボ・ラレドの進出を諦め、セタスと休戦に至りました(*2)。セタスとの休戦は、シナロア・カルテルの矛先を、「ヌエボ・ラレド」から「シウダー・フアレス(フアレス・カルテルの本拠地)」に変えさせました。シナロア・カルテルはシウダー・フアレス侵攻の為、ベラクルス州で密かに戦闘部隊を築き上げていきました(*2)。戦闘部隊は「ジェンテ・ヌエバ」(Gente Nueva)もしくは「ロス・チャポス」(Los Chapos)と呼ばれました(*2)。先述の誘拐された傭兵の“エル・ジャガー”・トーレス・マルーフォ(“El Jaguar”Torres Marrufo)がジェンテ・ヌエバの司令官を務めました(*2)。
一方のフアレス・カルテルは老舗ストリートギャング「バリオ・アステカ」(Barrio Azteca)を自陣に引き入れました(*2)。バリオ・アステカは主にエル・パソを拠点に活動していたアメリカ合衆国系の組織でした(*12)。バリオ・アステカは1986年アメリカ合衆国テキサス州エル・パソの刑務所でヒスパニック系受刑者達によって結成されました(*2)。バリオ・アステカは元々刑務所ギャングとして始まったのです(*12)。
後にバリオ・アステカは刑務所外に進出、違法薬物販売業者から収益の一部を徴収していきました(*12)。加えてバリオ・アステカは、フアレス・カルテルから違法薬物を卸してもらい、アメリカ合衆国内で密売していました(*12)。バリオ・アステカは、フアレス・カルテルと経済的にも密接につながっていたのです。組織の特徴としては、バリオ・アステカは南カリフォルニアの刑務所ギャング「ラ・エメ」(La Eme)に似ています(*13)。
加えてフアレス・カルテルの戦闘部隊「ラ・リネア」(La Línea)は、「リンセス」(Linces)という民兵組織を(80人のエリート部隊)作りました(*2)。ちなみに2010年時ラ・リネアのトップはフアン・パブロ・“エル・JL”・レデスマ(Juan Pablo“El JL”Ledezma)でした(*2)。
バリオ・アステカの構成員が「ラ・リネア構成員」を兼任する場合もありました(*2)。ヘスス・アルマンド・ “エル35”・アコスタ・ゲレーロ(Jesús Armando “El 35”Acosta Guerrero)は2010年時、バリオ・アステカ構成員であったのに加えて、「ラ・リネアの隊長」としても活動していました(*2)。また2010年時バリオ・アステカ首領のホセ・アントニオ・“エル・ディエゴ”・アコスタ・エルナンデス(José Antonio“El Diego”Acosta Hernánd)はフアレス・カルテルの副官でもありました(*2) (*14)。
2007年末頃シナロア・カルテルは戦闘部隊ジェンテ・ヌエバをシウダー・フアレスに潜入させていき、情報収集及び協力者集めをしていきました(*2)。シナロア・カルテルは「アーティスタス・アセシノス」(Artistas Asesinos)というグループを自陣に引き入れました(*2)。
2008年1月5日シウダー・フアレスで抗争が始まりました(*2)。両者の抗争が再発したのです。シウダー・フアレスの殺人件数は2007年310件でしたが、2008年1,607件に急増しました(*2)。またシウダー・フアレスの2009年殺人件数は2,754件(*2)、2010年3,117件(*14)、2011年3,622件でした(*14)。年を追うごとにシウダー・フアレスでは殺人件数が増加していったことが分かります。
ちなみに日本の認知殺人件数は2007年(1~12月)1,199件、2008年(1~12月)1,301件、2009年(1~12月)1,095件、2010年(1~12月)1,068件、2011年(1~12月)1,052件でした(*15)。2008~2011年においてはメキシコの1つの都市が殺人件数で日本を上回っていたことが分かります。
シナロア・カルテルとの長期抗争でフアレス・カルテルは弱体化していきました(*14)。結果フアレス・カルテル内の各派閥は独立性を強めていきました(*14)。フアレス・カルテル内の有名な派閥としては、先述のラ・リネアがありました(*14)。また先述のバリオ・アステカも「フアレス・カルテルの派閥」として認識されていました(*14)。2014年10月ビセンテ・カリージョは逮捕されました(*14)。
2020年時点のフアレス・カルテルとラ・リネアは、「シウダー・フアレス」→「エル・パソ」間の密輸経路を使い、ヘロイン、メタンフェタミン、コカイン、マリファナをアメリカ合衆国に供給していました(*16)。
メキシコ麻薬カルテルにとってエル・パソは物流上、重要な拠点です。アメリカ合衆国の中で、メキシコとの国境に接し、加えて「州間高速道路」(アメリカ合衆国の高速道路:Interstate Highway)の通る街は限られています。2023年時点ではカリフォルニア州サンディエゴ(5号線)、アリゾナ州ノガレス(19号線)、テキサス州エル・パソ(10号線)、テキサス州ラレド(35号線)、テキサス州マッカレン(2号線)、テキサス州ブラウンズビル(69号線イースト)、の6つが該当します(*17) (*18)。ただしマッカレンの2号線、ブラウンズビルの69号線イーストは2023年時点で、他の州間高速道路とはつながっていません (*18)。1991年の地図上においても、6つの街にはすでに、上記の州間高速道路が通っていました(*19)。
ちなみにメキシコ=アメリカ合衆国の国境線は3,215kmです(*20)。
エル・パソから10号線で西に行けばツーソン(アリゾナ州)、逆に東に行けばサンアントニオ(テキサス州)があります(*18)。また10号線は25号線(南北縦断の州間高速道路)と接続しています(*18)。メキシコ麻薬カルテルはエル・パソまで違法薬物を持ち運べば、州間高速道路を利用し、各地に輸送していくことができるのです。
陸路でメキシコからエル・パソに入る際、シウダー・フアレスが「最後の経由地」となります。ゆえにシウダー・フアレスは違法薬物の輸送上において「要衝」だったのです。シナロア・カルテルは「要衝」を確保したいという狙いのもと、2008年シウダー・フアレスに侵攻したとも考えられます。
<引用・参考文献>
*1『エリア・スタディーズ91 現代メキシコを知るための70章』「メキシコと米国の国境地帯-21世紀における国境の意味」(G・カレーニョ/長岡誠、2019年、明石書店),p106-109
*2 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』(David F. Marley,2019,Abc-Clio Inc), p193-198
*3 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』, p248-249
*4 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』, p76
*5 『エリア・スタディーズ54 ボリビアを知るための73章 【第2版】』「経済開発の諸条件 多様で広大な国土の開発と障害」(国本伊代、2013年、明石書店),p166-169
*6 国土交通省のサイト「質問 日本の舗装道路の歴史を教えてください」
https://www.mlit.go.jp/road/soudan/soudan_10a_02.html
*7 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』, p161
*8 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』, p256-257
*9 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』, p140
*10 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』, p286-287
*11 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』, p30
*12 『メキシコ麻薬戦争 アメリカ大陸を引き裂く「犯罪者」たちの叛乱』(ヨアン・グリロ著、山本昭代訳、2014年、現代企画室), p350-351
*13『State of War MS-13 and El Salvador’s World of Violence』(William Wheeler、2020年、Columbia Global Reports), p36-37
*14 『Mexican Cartels: An Encyclopedia of Mexico’s Crime and Drug Wars』, p199-200
*15 警察庁刑事局捜査支援分析管理官「訂正版 犯罪統計資料 平成23年1~12月分【確定値】」(2016年),p5
*16 アメリカ合衆国麻薬取締局サイト内「2020全米麻薬脅威評価(National Drug Threat Assessment)」(2021),p68
*17 連邦幹線道路局(Federal Highway Administration)サイト「FHWA Route Log and Finder List :Table 1 – Main Routes」
*18 連邦幹線道路局(Federal Highway Administration)サイト「National Highway System」
https://hepgis.fhwa.dot.gov/fhwagis/#
*19 連邦幹線道路局(Federal Highway Administration)サイト「1991 Federal Aid Primary (FAP)」
*20『エリア・スタディーズ91 現代メキシコを知るための70章』「メキシコと米国の国境地帯-21世紀における国境の意味」(G・カレーニョ/長岡誠、2019年、明石書店),p108
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