クラン・デル・ゴルフォ

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 2020年より少し前の南米コロンビアでは、旧コロンビア革命軍(FARC:Fuerzas Armadas Revolucionarias de Colombia)の分離派、また複数の武装組織が、コロンビア国内の違法薬物取引を仕切っていました(*1)。

 一方アメリカ合衆国の違法薬物市場では、武装組織「クラン・デル・ゴルフォ」(Clan del Golfo)がコロンビア勢の中では最も知られていました(*1)。クラン・デル・ゴルフォの英語表記は「Gulf Clan」となり、ガルフ・クランと読まれます(*1)。クラン・デル・ゴルフォの主な資金獲得源は、海外向けの違法薬物ビジネスでした(*2)。

 クラン・デル・ゴルフォは別名「ガイタニスタ」(Gaitanistas)、「ウラベーニョス」(Urabeños)等とも呼ばれていました(*2)。

 またクラン・デル・ゴルフォは自らを「コロンビア・ガイタン主義自警団」(AGC:Autodefensas Gaitanistas de Colombia)と呼び、一方コロンビア政府からは「クラン・デル・ゴルフォ」と呼ばれていました(*2)。

 クラン・デル・ゴルフォは「コロンビア自警軍連合」(AUC:Autodefensas Unidas de Colombia)を源流としました(*2) (*3)。コロンビア自警軍連合は「民兵組織の連合体」であり、右翼的な組織でした(*3)。「コルドバ・ウラバー農民自警団」(ACCU)トップのカルロス・カスターニョが、コロンビアの主な民兵組織に呼びかけ、1997年4月コロンビア自警軍連合を結成しました(*4)。

 コルドバ・ウラバー農民自警団は、1993年カルロス・カスターニョ、その兄のフィデル・カスターニョによって結成されました(*4)。兄のフィデル・カスターニョが射殺された後、1994年1月カルロス・カスターニョがコルドバ・ウラバー農民自警団のトップに就きました(*4)。

 1940年代以降のコロンビアでは大土地所有者(農場主・牧場主ら)が民兵組織を持つようになりました(*4)。エルネスト・サンペル大統領時代(1994~1998年)のコロンビア政府は、民兵組織を合法化していました(*4)。コロンビアの民兵組織は右翼思想を持ち、左翼ゲリラ組織を敵対視していました(*4)。

 1997年結成のコロンビア自警軍連合の敵は、左翼ゲリラ組織のコロンビア革命軍、「民族解放軍」(ELN)でした (*4)。

 1990年代のコロンビアでは、コロンビア政府の取締り強化により、二大麻薬カルテルの「メデジン・カルテル」「カリ・カルテル」が崩壊しました(*5)。以後、コロンビアの違法薬物ビジネス業界では小規模組織(独立系密売業者)が乱立しました (*5)。

 2002年コロンビア自警軍連合は停戦を宣言、同年12月からコロンビア政府と和平交渉を始めていきました(*3)。翌2003年7月コロンビア自警軍連合とコロンビア政府は「サンタフェ・デ・ラリート合意」に調印、コロンビア自警軍連合は2005年末までに構成員1万3,000人全員の投降及び武装解除を約束しました(*3)。

 コロンビア自警軍連合の中には投降及び武装解除に反対する勢力がいました(*2)。結果、コロンビア自警軍連合内で争いが勃発しました(*3)。2004年コロンビア自警軍連合トップのカルロス・カスターニョは、兄弟のビセンテ・カスターニョに殺害されました(*3)。ビセンテ・カスターニョは投降及び武装解除の反対派でした(*2)。

 反対派のビセンテ・カスターニョらは2006年コロンビア自警軍連合を脱退、新しい武装組織を結成しました(*2)。この新しい武装組織がクラン・デル・ゴルフォとなりました。クラン・デル・ゴルフォ創設者のビセンテ・カスターニョは2007年3月殺害されました(*2)。

 後にダニエル・レンドン・エレラ(Daniel Rendón Herrera)がクラン・デル・ゴルフォを率いていきました(*2)。ダニエル・レンドン・エレラはビセンテ・カスターニョの部下でした(*2)。ダニエル・レンドン・エレラはクラン・デル・ゴルフォの勢力を拡張させていきました(*2)。しかし2009年4月ダニエル・レンドン・エレラは逮捕されました(*2)。

 その後フアン・デ・ディオス・ウスガ(Juan de Dios Úsuga)、ダリオ・アントニオ・ウスガ(Dario Antonio Úsuga)のウスガ兄弟がクラン・デル・ゴルフォを率いていきました(*2)。ウスガ兄弟は元々、左翼ゲリラ組織「解放人民軍」(*6)(EPL:Ejército Popular de Liberación)の出身で、その後コロンビア自警軍連合に加入しました(*2)。解放人民軍は「マルクス・レーニン派共産党」の戦闘部隊として1967年4月に結成されました(*6)。

 ウスガ兄弟は解放人民軍の元メンバー達をクラン・デル・ゴルフォに引き入れていきました(*2)。その後「解放人民軍の元メンバー達」はクラン・デル・ゴルフォの中核グループとなっていきました(*2)。その中核グループは「エスタード・マヨール」(Estado Mayor)と呼ばれました(*2)。

 クラン・デル・ゴルフォはコロンビアの17県で活動し、アンティオキア県とチョコ県のウラバ湾岸エリアを本拠地としてきました(*2)。アンティオキア県とチョコ県は、コロンビア北西部に位置しています。チョコ県は北の隣国パナマと接しています。コロンビアの県でパナマと接しているのはチョコ県だけです。つまり陸路でコロンビアからパナマに行くにはチョコ県を通らなければなりませんでした。またチョコ県は大西洋と太平洋の両方に面しています。

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