ペルーの「センデロ・ルミノソ」

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 南米ペルーでは左翼ゲリラ組織「センデロ・ルミノソ」(Sendero Luminoso:輝く道)が活動してきました(*1)。センデロ・ルミノソの英語名は「シャイニング・パス」(Shining Path)になります(*1)。

 センデロ・ルミノソの源流は、ペルー共産党でした。1964年ペルー共産党から「中国派」が脱退しました(*2)。中国派が脱退した背景には、ソビエト連邦と中国の関係悪化がありました(*2)。

 1970年その中国派から「毛沢東主義派」が脱退、センデロ・ルミノソを結成しました(*1) (*2)。毛沢東主義派は、アビマエル・グスマン(Abimael Guzman)により率いられていました(*2)。その後のセンデロ・ルミノソもアビマエル・グスマンが率いていきました(*1)。結成時センデロ・ルミノソの構成員数は、数十人でした(*1)。

 ペルー共産党の源流は「ペルー社会党」でした。1928年ホセ・カルロス・マリアテギ(1894年生まれ)が「ペルー社会党」を結成しました(*3)。1930年4月ホセ・カルロス・マリアテギが死去すると、翌5月ペルー社会党は「ペルー共産党」に改称しました(*3)。

 「第三インターナショナル」(コミンテルン)はペルー社会党に対して否定的な態度をとっていました(*3)。コミンテルンは、ロシア共産党の指導下にありました(*3)。背景にはペルー社会党率いるホセ・カルロス・マリアテギが独特の考えを持っており、コミンテルンがそれを嫌がったことがありました(*3)。ゆえに後継のペルー共産党はコミンテルンに対し従順な姿勢を示していきました(*3)。

 1980年までにセンデロ・ルミノソの構成員数は、500人以上になりました(*1)。さらに10年後の1990年には、センデロ・ルミノソは約3,000人の構成員を擁すまでに至りました(*1)。

 アビマエル・グスマンは国立サン・クリストバル・デ・ワマンガ大学(アヤクチョ県)の哲学教授でした(*4)。1964年アビマエル・グスマンは中国を訪れ、毛沢東の思想に感化されていました(*1) (*2)。

 センデロ・ルミノソは、共産主義を実現する手段として、武力闘争路線をとりました(*1)。ゆえにセンデロ・ルミノソはペルーの治安機関や公的機関を攻撃していきました(*1)。従来ペルーの共産党は武力闘争路線をとっていませんでした(*1)。

 加えてセンデロ・ルミノソは一般人にも容赦なく暴力を行使していきました。センデロ・ルミノソの路線に反対したと思われる農民コミュニティーが、センデロ・ルミノソの攻撃対象となりました(*1)。

 後に真実和解委員会(2001年から活動開始)(*4)は、センデロ・ルミノソが1980年から2000年にかけて約31,000人を殺害したと、認定しました(*1)。またセンデロ・ルミノソは石打ち、熱湯に放り込むなどの方法でも殺害しており、残虐さを極めていました(*1)。

 1980年代末までにセンデロ・ルミノソは、構成員数を増加させていったように、ペルー国内で進出エリアを拡大させていきました(*1)。首都リマではセンデロ・ルミノソがパンアメリカン・ハイウェイや中央道などの幹線道路をおさえていました(*2)。

 潮目が変わったのが1990年でした。1990年アルベルト・フジモリ(Alberto Fujimori)がペルー大統領選挙で当選しました(*1) (*5)。新大統領アルベルト・フジモリはセンデロ・ルミノソに対する攻撃を強化していきました(*1)。アルベルト・フジモリは日系人でした(*5)。アルベルト・フジモリの親が熊本県からペルーに移住していました(*5)。

 ペルー政府の攻撃強化は実を結びました。1992年9月アビマエル・グスマン(センデロ・ルミノソの首領)は、リマのダンススタジオで逮捕されました(*1) (*5)。逮捕後アビマエル・グスマンは、仲間らに対し、ペルー政府と和平交渉をするよう、呼びかけました(*1)。

 アビマエル・グスマンの呼びかけは、センデロ・ルミノソを分裂に至らせました(*1)。アプリマック、エネ及びマンタロ川渓谷周辺(Apurimac, Ene and Mantaro River Valley :VRAEM)を拠点に活動する勢力は、アビマエル・グスマンを「裏切り者」と非難しました(*1)。

 一方、センデロ・ルミノソの中には、引き続きアビマエル・グスマンを支持する勢力もいました(*1)。アビマエル・グスマン支持勢力は、ワヤガ渓谷の北部を拠点にしていました(*1)。

 分裂もあり、センデロ・ルミノソの活動は2000年代半ばまでに下火になっていきました(*1)。

 センデロ・ルミノソの残存勢力は、護衛サービス等で収益を上げていました(*1)。センデロ・ルミノソは違法薬物の密売人に護衛サービス等を提供していました(*1)。先述のアプリマック、エネ及びマンタロ川渓谷周辺(VRAEM)は、ペルーにおいて違法薬物の主要生産地域でした(*1)。キスペ・パロミノ兄弟(Quispe Palomino brothers)がVRAEMの残存勢力を率いていきました(*1)。センデロ・ルミノソの残存勢力が、違法薬物ビジネスと「接続」していたことが分かります。

<引用・参考文献>

*1 InSight Crimeサイト「Shining Path」(InSight Crime,2021年5月23日)

https://insightcrime.org/peru-organized-crime-news/shining-path-profile

*2 『エリア・スタディーズ35  ペルーを知るための66章 【第2版】』「センデロ・ルミノソの台頭 萎縮する市民社会」(遅野井茂雄、2019年、明石書店),p171-174

*3 『エリア・スタディーズ35  ペルーを知るための66章 【第2版】』「アプラとマリアテギ 1920年代のペルー急進主義」(高橋均、2019年、明石書店),p137-141

*4 『エリア・スタディーズ35  ペルーを知るための66章 【第2版】』「暴力の時代と先住民 真実和解委員会と平和構築」(細谷広美、2019年、明石書店),p265-272

*5 『エリア・スタディーズ35  ペルーを知るための66章 【第2版】』「日系人大統領の登場 フジモリの新自由主義革命」(遅野井茂雄、2019年、明石書店),p175-178

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