2021年4月「住吉会」で会長(トップ職)の交代がありました(*1)。小川修司が住吉会の新会長に就任しました(*1)。就任前の小川修司は1次団体内では渉外委員長を務め、2次団体では「共和一家」(住吉会2次団体)の七代目総長を務めていました(*1)。
住吉会の前会長は関功でした(*1)。関功は2014年4月住吉会会長に就任(*2)、退任(2021年4月)までの7年間、会長職を務めました(*1)。住吉会会長就任(2014年4月)前の関功は、1次団体では会長代行、2次団体では共和一家六代目(当時は「共和六代目」と呼ばれていました)を務めていました(*2)。
小川修司は、関功の住吉会会長就任(2014年4月)時に、共和一家七代目を継承しました(*3)。先代の関功は1998年に共和六代目を継承し、2014年まで務めました(*2) (*3)。
小川修司にとって「住吉会会長」及び「共和一家総長」の両方で、関功が先代だったのです。
小川修司会長体制(2021年4月~現在)において関功(前会長)は「代表」という職に就きました(*4)。翌2022年5月31日、関功代表は死去しました(*5)。
2023年9月18日埼玉県日高市内の住吉会関連施設にて、「小川修司」と「2次団体トップ及び幹部ら」の間で、親子盃及び兄舎弟盃が交わされました(*6)。
この盃事において小川修司が「親」もしくは「兄」役であり、2次団体トップ及び幹部らが「子」もしくは「舎弟」役でした(*6)。小川修司の子分になったのが59名、舎弟になったのが9名でした(*6)。子分59名の内訳は「執行部16名」+「中央委員10名」+「専任相談役33名」でした(*6)。一方、舎弟9名の内訳は「常任相談役8名」+「相良福一総務長」でした(*6)。
『週刊実話』2023年10月12日号記事内の「住吉会役員人事一覧」を見ると、当時、子分ではなく舎弟でもなかった者達、つまり小川修司と盃を交わさなかった者達がいたのです。特別相談役の柴崎靖忠(「馬橋一家」七代目総長)、特別相談役の加藤英幸(「幸平一家」十三代目総長)、最高顧問の福田晴瞭(「住吉一家」七代目総長)、常任顧問の小林忠紘(「小林会」三代目会長)、会長補佐の児島秀樹(京王会会長)、特別常任相談役の5名、参与2名の計12名は、小川修司と盃を交わしませんでした(*6)。
先述したように小川修司が住吉会会長に就いたのは2021年4月でした。会長就任から2年数カ月の時を経て、親子盃及び兄舎弟盃が交わされたことになります。
この間(2021年4月~2023年9月)、住吉会2次団体トップ及び幹部らにとって、小川修司は「会長」であっても、「親分」もしくは「兄」ではなかったのです。
時間が空いた要因の1として、関功代表(住吉会の前会長)の存在があったと考えられます。先述したように関功は2014年4月住吉会会長に就任しました。その翌月(2014年5月)、「関功」と「2次団体トップ及び幹部ら」の間で、親子盃及び兄舎弟盃が交わされました(*7)。関功は住吉会会長に就任した翌月には、住吉会2次団体トップ及び幹部らの「親分」もしくは「兄」になっていたのです。
2023年9月18日の親子盃及び兄舎弟盃において小川修司と「盃を交わさなかった者」が12名いたように、2014年5月の親子盃及び兄舎弟盃において関功と「盃を交わさなかった者」がいた可能性があります。その場合、盃を交わさなかった者にとって、関功は「親分」でも「兄」でもなかったのです。
先述したように小川修司会長体制開始時(2021年4月)から死去時(2022年5月31日)まで、関功は引退せず、住吉会の代表を務めていました。盃事上においては、その間(2021年4月~2022年5月31日)、関功と盃を交わした「住吉会2次団体トップ及び幹部ら」にとって、関功が「親分」もしくは「兄」だったのです。
2021年4月~2022年5月31日の間、住吉会は「二頭政治」を敷いていたといえます。
関功は同じ共和一家出身者の小川修司に会長職を譲ったものの、警戒心を持っていたのかもしれません。早期に新会長・小川修司が2次団体トップ及び幹部らと親子盃及び兄舎弟盃を交わした場合、その後「関功の求心力」は徐々に低下していったことは予想されました。
もしくは関功は元々「新会長・小川修司が2次団体トップ及び幹部らと盃を交わすこと」を考えていなかった(認めていなかった)可能性もあります。関功は2022年5月31日死去してしまった為、現在においてその本心は確認できません。
前任者は2次団体トップ等と盃を交わしたにも関わらず、1次団体トップ職在任中に盃を交わせなかった者としては、稲川会二代目会長の石井隆匡(在任期間:1986年5月~1990年10月)(*8)、住吉会会長の福田晴瞭(在任期間:1998年~2014年4月)(*2)が挙げられます。
ちなみに福田晴瞭会長体制時(1998年~2014年4月)の住吉会では、一部の2次団体を除いて、概ね2次団体は「住吉一家の傘下」に入ることになりました(*2)。大半の住吉会2次団体が名目上「3次団体」になりました(*2)。共和一家の場合、福田晴瞭会長体制時(1998年~2014年4月)、「住吉会住吉一家共和」と名乗っていました(*7)。しかし関功会長体制(2014年4月~2021年4月)では、2次団体が「住吉一家の傘下」に入る制度は廃止されました(*2) (*7)。
共和一家の場合、2014年4月からは「住吉会共和一家」と名乗るようになりました(*7)。 先述したように2023年9月18日小川修司が2次団体トップ及び幹部ら(12名を除き)と盃を交わしたことで、住吉会における二頭政治は解消されました。その際小川修司は「九代目住吉会会長」と表記されていました(*6)。住吉会(及びその前身の1次団体)ではトップ職に「代目」は用いられず、住吉一家の代目が用いられてきました(*2)。
住吉会の源流は「港会」(1958年結成)でした(*9)。港会の「会長」には青田富太郎が就きました(*9)。結成時の港会は、博徒組織、テキヤ組織、愚連隊など計28団体で構成されていました(*9)。港会の中核を担ったのが住吉一家でした(*9)。住吉一家は明治時代(1868~1912年)には活動していました(*10)。港会結成時(1958年)の住吉一家総長は阿部重作でした(*9)。阿部重作は1948年9月、住吉一家三代目を継承していました(*11)。住吉一家は博徒組織でした(*7)。
「住吉一家」の名称由来は、住吉一家初代の伊東松五郎が日本橋住吉町(現在の日本橋人形町)で生まれた説、または住吉一家創始者が明治時代の相撲界では有名な常陸岩の父で、柏の壮士・住吉某だった説がありました(*11)。
阿部重作が住吉一家三代目を継承した1948年時、住吉一家は東京・芝浦一帯を縄張りとしていました(*11)。また住吉一家は芝(現在の港区高輪、三田、白金など)も縄張りとしていました(*10)。1895年(明治二十八年)、住吉一家と博徒組織「落合一家」の構成員同士が喧嘩をし、結果、住吉一家構成員1名が斬り殺されてしましました(*10)。両団体は和解し、その際、落合一家が芝の縄張り(古川橋、三の橋、四の橋より海側)を住吉一家に譲渡しました(*10)。
また1916年(大正五年)1月住吉一家(二代目総長・倉持直吉)は富士見町(現在の港区南麻布)で賭場を開帳しており(*10)、当時は富士見町を縄張りにしていたと考えられます。
阿部重作は「高木組」の出身でした(*11)。高木組は、芝浦で人足供給業(労働者派遣業)の組織として高木康太により興されました(*11)。芝浦には港湾があり、高木組は港湾関係の人足供給業をしていたのでしょう。高木康太は元々博徒組織「生井一家」系統の者で、博徒でした(*11)。また高木康太は「住吉一家の客分」でした(*11)。太平洋戦争終了(1945年)後、高木組は海運業に転じ、また高木康太は引退しました(*11)。
阿部重作は高木組の「代貸」でした(*11)。加えて阿部重作は1937年和泉海運の下請けになりました (*11)。高木組は「賭博業及び人足供給業」の組織だったと考えられます。先述したように、阿部重作は1948年9月に住吉一家三代目を継承しました。阿部重作は高木組から住吉一家に移籍したことになります。
港会の話に戻ります。先述の港会初代会長・青田富太郎は、阿部重作の代貸でした(*9)。
代貸とは、博徒組織の役職の1つで、「賭場の現場責任者」を指しました(*12) (*13)。代貸の上にいたのが「貸元」でした(*12)。貸元は「縄張りの監督官」で、縄張り内における賭博事業を仕切りました(*13)。貸元以上の者が「親分」と呼ばれました(*12)。
貸元の上位にいたのが「総長」でした(*12)。総長は博徒組織の最高位でした(*12)。総長が博徒組織内の縄張りを所有しており、縄張りの一部を各貸元に預けていました(*13)。貸元は縄張りを「所有」していなかったのです。ちなみに博徒組織における縄張りとは「賭場の開帳権を行使できる地理的範囲」のことでした(*14)。
大規模な博徒組織では貸元は20人以上いました(*13)。各貸元は賭博事業における収益の一部を総長に上納しなければなりませんでした(*13)。また貸元が引退を固めた際、総長に申し出なければなりませんでした(*15)。そして総長が一家(1次団体)内で相談し、加えて親類とも相談した上で、次期貸元は選ばれました(*15)。
港会に話を戻します。先述したように港会初代会長の青田富太郎は、阿部重作(住吉一家三代目総長)の「代貸」でした。代貸とは、貸元(親分)の腹心であり、転じて「組織のナンバー2」も意味していました(*12)。実際、青田富太郎は「住吉一家の貸元」でした(*13)。ゆえに青田富太郎は「住吉一家の有力貸元」(住吉一家の最高幹部)だったと考えられます。
港会には、先述の住吉一家以外に「上萬一家」「波木一家」、共和一家、「弥根屋一家」「音羽一家」「千住一家」「堀越一家」「千人同人会」などが加盟していました(*13)。共和一家は港会時代から加わっていたのです。
港会は1964年10月「住吉会」に改称しました(*9)。住吉会の「会長」には磧上義光(住吉一家四代目総長)が就任しました(*9)。1962年10月に磧上義光は住吉一家四代目総長を継承していました(*9)。1962年10月以前、磧上義光は博徒組織・上萬一家の貸元でした(*9)。磧上義光は1967年12月に病死するまで、住吉一家四代目を務めました(*9)。
警察庁は1964年からヤクザ組織に対する取り締まり強化作戦(通称:頂上作戦)を実行、結果、翌1965年5月住吉会は解散しました(*9)。
旧住吉会勢力は1969年「住吉連合」を結成しました(*16)。堀政夫が住吉連合の「代表」に就きました(*16)。磧上義光(住吉一家四代目総長)の遺言により、堀政夫は1967年に住吉一家五代目を継承していました(*9)。堀政夫は元々「中里一家」(千葉県野田市)四代目総長でした(*17)。
堀政夫は1925年(大正十四年)長崎県佐世保市に生まれました(*17)。倉持直吉二代目総長体制時、堀政夫は住吉一家の貸元・井出六蔵の子分(もしくは舎弟)になりました(*17)。また太平洋戦争終了(1945年)直後、堀政夫は芝白金(現在の港区白金)の演芸館を主舞台にしていた芝居一座の用心棒をしていました(*17)。
先述したように1895年(明治二十八年)の「住吉一家と落合一家の構成員同士による喧嘩」をきっかけに、落合一家は芝の縄張り(古川橋、三の橋、四の橋より海側)を住吉一家に譲渡しました。堀政夫が用心棒をしていた芝居一座の拠点は、芝白金(現在の港区白金)であり、住吉一家の縄張りであった可能性が高いです。縄張り内の芝居一座の為に、堀政夫は用心棒をしていたと考えられます。
その後堀政夫は東京から千葉県野田市に移り、中里一家四代目を継承しました(*17)。そして堀政夫は1967年に住吉一家五代目を継承したのです。
1982年5月住吉連合は「住吉連合会」に改称(*9)、堀政夫が住吉連合会の「会長」に就任しました(*9)。1988年5月川口喨史(日野一家四代目総長) (*18)が住吉連合会の新会長に就任、堀政夫は総裁になりました(*9)。川口喨史は会長就任にあたって、日野一家の跡目(五代目)を山口吉次郎に譲りました(*18)。
1990年5月川口喨史会長が死去、同年10月堀政夫総裁(この時も住吉一家五代目総長兼任)も死去しました(*9)。川口喨史会長の死去後、西口茂男(向後二代目)(*11)が連合会の会長を引き継ぎました(*9)。
1991年2月住吉連合会は「住吉会」に改称、西口茂男が住吉会の「会長」に就任しました(*9)。同時に西口茂男は住吉一家六代目を継承しました(*9)。1990年10月~1991年2月の間、住吉一家総長は空席となっていたのでした。
1998年西口茂男は会長を退任、先述の福田晴瞭(小林会二代目会長)が新会長に就任しました(*9)。
西口茂男会長体制(1991年2月~1998年)下の1991年住吉は「直参制」を導入しました(*19)。ヤクザ業界における直参制とは「1次団体トップの者」と「2次団体トップの者」が親分-子分もしくは兄-舎弟の関係になることで、「1次団体」と「2次団体」の関係が垂直的(支配-被支配)になるというものでした(*19)。直参制は統治方法の1つでした。
一方、第2次住吉会(1991年2月発足)以前の組織は(港会→第1次住吉会→住吉連合→住吉連合会)は、連合型の組織形態をとっていました(*19) (*20)。
直参制度導入(1991年)にあたって、トップの西口茂男は2次団体トップ等らと親子盃もしくは兄舎弟盃を交わしました(*19)。
別の資料では西口茂男は2次団体トップ等らと親子盃を交わしたと書かれています(*20)。西口茂男は兄舎弟盃を交わさなかったかもしれません。西口茂男は先輩格の者を「舎弟分」にするのではなく、盃を交わさない措置で対応したのかもしれません。ヤクザ組織業界では「最高顧問」「相談役」という職の者は、トップと盃を交わさない場合もあったようです(*19)。実際、先述した2023年9月18日の親子盃及び兄舎弟盃では「特別相談役」「特別常任相談役」「最高顧問」「常任顧問」の者は、トップの小川修司と盃を交わしませんでした。一方「常任相談役」「専任相談役」の者はトップの小川修司と盃を交わしていました。
福田晴瞭会長体制(1998年~2014年4月)下の2005年、西口茂男は引退し、福田晴瞭会長が住吉一家七代目を継承しました(*2)。2023年9月18日(小川修司が2次団体トップ及び幹部らと盃を交わした日)時点、福田晴瞭は住吉一家七代目総長を務め、1次団体内では最高顧問の職に就いていました(*6)。YAKUZAWIKI等の情報によると福田晴瞭は今年(2025年)4月引退したとのことです。
以上の情報を基に「歴代の1次団体トップ」と「歴代の住吉一家総長」をまとめてみました。
<歴代の1次団体トップ>
*住吉連合会と第2次住吉会ではトップ交代が複数回あった為、理解しやすくする目的で、筆者の方で代目をつけました
港会会長:青田富太郎(在任期間:1958年~1964年10月)
第1次住吉会会長:磧上義光(在任期間:1964年10月~1965年5月)
住吉連合代表:堀政夫(在任期間:1969年~1982年5月)
住吉連合会初代会長:堀政夫(在任期間:1982年5月~1988年5月)
住吉連合会二代目会長:川口喨史(在任期間:1988年5月~1990年5月)
住吉連合会三代目会長:西口茂男(在任期間:1990年5月~1991年2月)
第2次住吉会初代会長:西口茂男(在任期間:1991年2月~1998年)
第2次住吉会二代目会長:福田晴瞭(在任期間:1998年~2014年4月)
第2次住吉会三代目会長:関功(在任期間:2014年4月~2021年4月)
第2次住吉会四代目会長:小川修司(在任期間:2021年~現在)
<歴代の住吉一家総長>
初代:伊東松五郎(在任期間:結成年不明~大正時代初め)(*21)
二代目:倉持直吉(在任期間:大正時代初め~1948年9月まで)(*21)
三代目:阿部重作(在任期間:1948年9月~1962年10月)
四代目:磧上義光(在任期間:1962年10月~1967年12月)
五代目:堀政夫(在任期間:1967年12月~1990年10月)
六代目:西口茂男(在任期間:1991年2月~2005年)
七代目:福田晴瞭(在任期間:2005年~2025年4月)
話を小川修司の「九代目住吉会会長」に戻します。「歴代の1次団体トップ」に基づいて代目をつけていく作業は難しいです。1次団体の名称変更が複数回あり、堀政夫と西口茂男は2団体にまたがってトップを務めています。
単純化して1個人を「1代」として数える方式をとると、初代・青田富太郎、二代目・磧上義光、三代目・堀政夫、四代目・西口茂男、五代目・福田晴瞭、六代目・関功、七代目・小川修司になります。小川修司は九代目になりません。1個人を「1代」として数える方式はとられていないようです。
YAKUZAWIKIの情報では、「歴代の住吉一家総長」が順番に初代~七代目となり、前会長の関功が「八代目」、現会長の小川修司が「九代目」となっています。「歴代の住吉一家総長」に初代~七代目を担わせることで、解決が図られた形です。
小川修司が、先代の関功を「住吉一家八代目」、自身を「住吉一家九代目」とすることもできたはずです。しかし、それはしなかったようです。
先述したように関功は共和一家六代目総長、小川修司は共和一家七代目総長でした。ちなみに小川修司会長体制(2021年4月~現在)体制では、大多和賢治が共和一家八代目総長を務めています(*6)。
博徒組織・共和一家の初代は、坂本林之助でした(*22)。明治時代(1868~1912年)の初期、坂本林之助が下総の佐原(千葉県北東部)にて博徒組織(共和一家の源流組織)を興しました(*22)。坂本林之助の別名は「坂本林蔵」でした(*22)。
坂本林之助は佐原の出身で、12、13歳の頃、博徒組織「鯉淵一家」(首領・中野与重の時代)で修行を始めました(*22)。鯉淵一家は水戸を拠点に活動していました(*23)。
後に坂本林之助は、鯉淵一家の貸元になりました(*22)。中野与重(鯉淵一家の首領)は坂本林之助に対し、故郷に帰りそこで一家を興すことをすすめました(*22)。佐原に戻る際、中野与重と坂本林之助の間で「兄舎弟盃」が交わされました(*22)。
坂本林之助は佐原に戻り(*22)、先述したように自身の組織を興したのです。その後、坂本林之助の勢力は拡大していきました(*22)。1888年(明治二十一年)坂本林之助は共和一家を立ち上げました(*22)。
共和一家は「鯉淵一家一門」の1つとして捉えることができます。後に鯉淵一家は「松葉会」に入りました(*23)。また共和一家が歴史のある博徒組織であることが分かります。
とはいえ過去に一家総長経験者が住吉一家を継承したことがあります。
五代目総長・堀政夫は、一家総長経験者(中里一家四代目総長)でした。ゆえに住吉内において、一家総長経験者が「住吉一家総長」を継承不可という不文律はないと思われます。
二代目総長・倉持直吉も中里一家出身ですが、中里一家では総長ではなかったです(*21)。三代目総長・阿部重作は高木組の代貸、四代目総長・磧上義光は上萬一家の貸元でした。二代目~五代目は「住吉一家外からの移籍組」とまとめることができそうです。
ちなみに阿部重作の出身母体の高木組ですが、先述したように「賭博業及び人足供給業」の組織だったと考えられました。明治時代(1868~1912年)から昭和30年代(1955~1964年)まで「港湾人足業」には「賭博業」が付属していました(*24)。高木組は港湾のある芝浦で人足供給業をしていました。港湾荷役会社の経営者の大半が、常設賭場を持っている親分(貸元以上の者)や顔役でした(*24)。
六代目総長・西口茂男は元々、向後二代目であり、現在の向後睦会(住吉会2次団体)を出身母体としました。七代目総長・福田晴瞭は小林会(住吉会2次団体)を出身母体としていました。
向後平が「向後初代」でした (*11)。阿部重作三代目体制(1948年9月~1962年10月)において向後平は住吉一家の大幹部でした(*11)。向後平は住吉一家の芝浦事務所の責任者を務めた後、1949年頃に拠点を高円寺(杉並区)に移しました(*11)。富岡香が芝浦事務所・責任者の後任となりました(*11)。向後平の組織(後の向後睦会)はその後、高円寺を拠点に、中央線沿線の新宿から八王子、埼玉県の大宮で活動していきました(*11)。
東京の中央線沿線一帯や新宿は、博徒組織「小金井一家」の縄張りでした(*25)。小金井一家は賭博業を主な資金獲得源とする一方、他団体に縄張りを貸し出していました(*25)。他団体は「賭博業以外の資金獲得活動」という条件の下で、小金井一家に「地代」を払い、小金井一家の縄張りで活動することができたのです(*25)。
おそらく向後平の組織は、東京の中央線沿線や新宿では小金井一家の縄張りを借りて、活動していたと考えられます。
港会結成の1958年、関東ではもう1つ大きな団体が発足していました。それは「日本国粋会」(1958年7月)でした(*26)。小金井一家は「日本国粋会」に発足時(1958年7月)から加盟しました(*26)。日本国粋会には生井一家、幸平一家、「田甫一家」、「佃政一家」、落合一家、「金町一家」なども発足時に加盟しました(*26)。
同年(1958年)博徒組織・幸平一家は「滝野川一家」「土支田一家」「二本木小川一家」の3団体とともに、「友愛会」を結成しました(*9)。滝野川一家、土支田一家、二本木小川一家の3団体は博徒組織でした(*9)。後に友愛会は港会に加入しました(*9)。
もしかしたら幸平一家は、一時期、日本国粋会と友愛会の両方に属していたのかもしれません。
1969年4月小金井一家は「国粋睦」(日本国粋会の後継組織)を「中杉一家」「辺見一家」とともに脱退しました(*27)。小金井一家の縄張りは「日本国粋会の縄張りの1/3」といわれており(*27)、大勢力の脱退といえました。
後に「親之助一家」も国粋睦を脱退しました(*27)。中杉一家と辺見一家はともに八王子市を拠点に活動していました(*27)。親之助一家は山梨県大月市を拠点に活動していました(*27)。脱退4勢力は「二率会」を結成しました(*27)。また中杉一家と辺見一家は合併し、「八王子一家」を立ち上げました(*27)。
先述したように東京の中央線沿線一帯は小金井一家の縄張りでした。八王子市、大月市も中央線が通っていました。二率会は中央線沿線を中心に活動していたと考えられます。小金井一家は川崎市にも縄張りを持っていました(*25)。
住吉連合会二代目会長・川口喨史の出身母体は日野一家(住吉会2次団体)でした。日野一家は博徒組織で、川口喨史(当時は住吉一家系構成員)は1960年5月日野一家四代目を引き継ぎました(*18)。つまり川口喨史は「住吉一家」から「日野一家」に移籍したのです。
また川口喨史の先代である林伊佐倶は、小金井一家の貸元でした(*18)。大正時代(1912~1926年)初期、林伊佐倶は日野一家三代目を継承しました(*18)。林伊佐倶は「小金井一家」から「日野一家」に移籍したのです。林伊佐倶三代目総長体制時、日野一家は縄張りを拡大させました(*18)。
日野一家は中央線沿線の一部を縄張りとしていました(*18)。中央線の駅においては国立、立川、日野、豊田が日野一家の縄張りでした(*18)。豊田の次の駅が八王子になります。
小金井一家(二率会2次団体)は東京の中央線沿線一帯を縄張りとしていたとしても、実態は「新宿から国立の手前まで」が小金井一家の縄張りだったと考えられます。
中央線において「国立~豊田」沿線だけは日野一家の縄張りであり、二率会において中央線の縄張りは「分断」されていたともいえます。二率会は、中央線における新宿~大月までの縄張りを持っていた訳ではなかったのです。
小金井一家らが国粋睦を脱退した1969年は、旧住吉会勢力が「住吉連合」を結成した年でもありました。
話が逸れましたが、ともかく向後睦会は「三代目住吉一家一門」の1つといえるでしょう。「三代目住吉一家一門」とは、筆者(鯉登太郎)の造語であり、一般的に使われてはいません。
阿部重作三代目体制(1948年9月~1962年10月)においては「大日本興行」という下部団体も住吉一家内では存在感を放っていました(*11)。大日本興行のトップは高橋輝男でした(*11)。
1956年3月6日浅草妙清寺で大日本興行系幹部の葬儀が行われていました(*11)。その葬儀に向後平が自ら子分を率いて入り込み、高橋輝男らに向けてピストルを乱射しました(*28)。大日本興行側もピストルで反撃しました(*28)。結果、向後平、高橋輝男、栗原優(大日本興行)の3人が死亡しました(*28)。この事件から「向後平の組織」と「大日本興行」が激しく対立していたこと、阿部重作三代目体制の住吉一家は「一枚岩」ではなかったことが分かります。
しかしその後も、向後睦会、大日本興行は精力的に活動していきました(*11)。大日本興行も「三代目住吉一家一門」の1つといえるでしょう。
七代目総長・福田晴瞭の出身母体である小林会初代会長は、小林楠扶でした(*11)。小林楠扶は元々、大日本興行系統の者でした(*11)。ゆえに小林会も「大日本興行系統の組織」、さらには「三代目住吉一家一門」の1つとして捉えることができるかもしれません。小林会は銀座(中央区)で活動していましたが、銀座は生井一家の縄張りでした(*29)。小林会は銀座において生井一家から縄張りを借りて活動していました(*29)。
生井一家は江戸時代に結成され、幕末の頃は千葉県北部と茨城県南部を活動範囲としていました(*30)。四代目総長・小川卯兵衛の時代、生井一家は東京日本橋の人形町(中央区)に進出しました(*30)。その後、生井一家は人形町を拠点に縄張りを拡大していきました(*30)。深川洲崎の遊郭地帯(現在の東京都江東区東陽一丁目)も生井一家の縄張りでした(*31)。生井一家は、向後睦会とは親戚関係を有していました(*32)。
東京の繁華街において住吉会の傘下団体は生井一家や落合一家などから縄張りを借りて活動していました(*33)。落合一家は渋谷、原宿(渋谷区)、六本木(港区)などを縄張りとしていました(*32)。
ちなみに昭和時代(1926~1989年)の初期、先述の博徒組織・田甫一家(日本国粋会加盟)は浅草(台東区)から千住(足立区)方面を縄張りにしていました (*34)。浅草では博徒組織「鼈甲家一家」(1897年頃結成)、先述の博徒組織・弥根屋一家(「家根弥一家」とも表記されます。幕末結成。港会加盟)、博徒組織「出羽家一家」(明治時代には活動。松葉会加盟)等が活動していました(*35)。
先述の博徒組織・佃政一家(日本国粋会加盟)は築地(中央区)を縄張りにしていました(*36)。佃政一家初代総長・金子政吉は「築地の顔役」でした(*36)。金子政吉(当時はヤクザ社会から引退の身)は1932年東京市と築地警察署、市場町から依頼され、不買争議を調停しました(*36)。金子政吉は佃島生まれで、元は漁師でした(*36)。一方で金子政吉は17、18歳の時、博徒組織「石定一家」(茅場町)に入りました(*36)。後に佃政一家は稲川会に加入しました(*36)。
また先述の博徒組織・金町一家(日本国粋会加盟)は山谷(現在の台東区北東部)一帯を縄張りにしていました(*37)。
博徒組織「碑文谷一家」は大井(品川区)、大森(大田区)、目黒、五反田(品川区)、品川周辺を縄張りとしていました(*38)。碑文谷一家は1959年夏、「稲川組」(現在の稲川会)に加入しました(*38)。一方、1962年6月に碑文谷一家は「鶴政会」(現在の稲川会)に加入したという資料もあります(*39)。1959年11月稲川組は「鶴政会」に改称しました(*40)。碑文谷一家の六代目総長・大杉精一は右翼団体「東海聯盟」を主宰していました(*38)。また東京の博徒組織「三本杉一家」も稲川会に加入しました(*39)。1981年以前に三本杉一家は稲川会に加入したと思われます(*39)。三本杉一家の四代目総長・岸悦郎は1981年引退し、右翼団体「大行社」の活動に専念していきました(*39)。
以上を踏まえると、阿部重作三代目体制(1948年9月~1962年10月)時から、住吉一家の縄張りは芝浦一帯、芝(現在の港区高輪、三田、白金など)、富士見町(現在の港区南麻布)などだったと考えられます。ちなみに住吉一家は神楽坂(新宿区)でも勢力を張っており(*41)、神楽坂を縄張りにしていたと考えられます。
また芝浦には海運業の「荒井組」が活動していました(*42)。関東大震災(1923年)直後、荒井直が芝浦で人足供給業の組織として荒井組を結成しました(*42)。荒井組は後に海運業を手掛けていきました(*42)。先述したように、住吉一家三代目総長・阿部重作の出身母体の高木組も芝浦で人足供給業をしていました。
先述の向後平や浜本政吉(住吉連合会の最高顧問) (*43)は荒井組の出身でした(*42)。太平洋戦争終了(1945年)後、荒井直が事業に専念するという理由で、向後平と浜本政吉は住吉一家(三代目総長・阿部重作)に移籍しました(*42)。戦後、芝浦の人足供給業界で再編があったと考えられます。
先述したように明治時代(1868~1912年)から昭和30年代(1955~1964年)まで「港湾人足業」には「賭博業」が付属していました。高木組や荒井組は正業(人足供給業等)をする一方で、芝浦で賭博業も手掛けていたと考えられます。高木組と荒井組は、芝浦における賭場開帳にあたって、住吉一家(縄張り主)に「カスリ」(*44)を払っていたと考えられます。博徒業界では他団体(博徒組織A)から許可をもらった上で、その他団体(博徒組織A)の縄張り内で賭場を開帳することがあり、その際は他団体(博徒組織A)に権利金を払いました(*44)。その権利金は「カスリ」と呼ばれていました(*44)。住吉一家側からいえば、縄張り内で高木組や荒井組の賭場開帳を認める代わりに、カスリを徴収していたと考えられます。ちなみに太平洋戦争終了(1945年)直後の賭場では、覚醒剤の水溶液がどんぶりに盛られ、夜通しで賭博をする客に無料で提供されていました(*45)。日本では1951年覚醒剤取締法が制定されるまで、覚醒剤は合法的な薬物でした(*46)。賭博と覚醒剤は親和性が高かったのです。
話を住吉一家総長に戻します。「総長への昇格経路」を以下にまとめてみました。
<総長への昇格経路> *初代を除く
二代目:倉持直吉「住吉一家外からの移籍組」
三代目:阿部重作「住吉一家外からの移籍組」
四代目:磧上義光「住吉一家外からの移籍組」
五代目:堀政夫 「住吉一家外からの移籍組」*一家総長経験済み
六代目:西口茂男「三代目住吉一家一門勢力(向後睦会)の出身」
七代目:福田晴瞭「三代目住吉一家一門勢力(小林会)の出身」
二代目~五代目を踏まえると共和一家出身者が住吉一家を継承する障壁は低いと考えられますが、六~七代目を踏まえると共和一家出身者が住吉一家を継承する障壁はやや高いと考えられます。
また共和一家出身者にとって、出身母体が歴史のある組織ゆえに、「住吉一家」への憧れ低いのかもしれません。
今後も九代目住吉会会長(小川修司)が「住吉一家八代目」を継承することはないように思われます。
<引用・参考文献>
*1 『週刊実話』2021年5月20日号, p44
*2 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p87-88
*3 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』,p97
*4 『週刊実話』2021年7月15日号, p36-37
*5 『週刊実話』2022年12月8日号, p45
*6 『週刊実話』2023年10月12日号, p182-185
*7 『実話時代』2017年5月号, p23-27
*8 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p39-40
*9 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』,p42-51
*10 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店),p144-145,234-235
*11 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫),p307-318
*12 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p16-17
*13 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p193-194
*14 『現代ヤクザ大事典』,p61
*15 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p270
*16 『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002年、ちくま文庫),p197
*17 『実録・新宿ヤクザ伝 阿形充規とその時代』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫),p337
*18 『実録・新宿ヤクザ伝 阿形充規とその時代』, p14-15
*19 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p263,329-333
*20 『ヤクザ・レポート』, p214
*21 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p83-86
*22 『実話時代』2016年11月号「にっぽん任俠地図 総州博徒列伝 共和一家初代坂本林之助が歩んだ游俠街道八十年」(大谷浩二), p107-109
*23 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p261-263
*24 『実話時代』2019年9月号,p80
*25 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社),p14
*26 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』,p162-163
*27 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社),p111
*28 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂),p29-32
*29 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫),p108,218
*30 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』,p72-73
*31 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p44
*32 『洋泉社MOOK・山口組・東京戦争』(有限会社創雄社編、2005年、洋泉社),p50
*33 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』,p46-47
*34 『FOR BEGINNERS シリーズ ヤクザ』(朝倉喬司、1990年、現代書館),p78
*35 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p297-305
*36 『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』(鈴木智彦、2021年、小学館文庫),p50,331-336
*37 『ヤクザと過激派が棲む街』(牧村康正、2020年、講談社),p12
*38 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p146-148
*39 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』,p134,181
*40 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』,p34
*41 『任俠 実録日本俠客伝②』, p43
*42 『伝説のヤクザ18人』(山平重樹、2018年、文庫ぎんが堂),p32-34
*43 『伝説のヤクザ18人』,p38-39
*44 『日本賭博史』(紀田順一郎、2025年、ちくま学芸文庫),p70
*45 『ヤクザ1000人に会いました!』(鈴木智彦、2012年、宝島SUGOI文庫),p94
*46 『覚醒剤アンダーグラウンド 日本の覚醒剤流通の全てを知り尽くした男』(高木瑞穂、2021年、彩図社),p42
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